SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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ワンピースのコアラに自分の心の闇を見る

ワンピースでコアラという奴隷少女がいた。彼女は魚人に殴られても、泣く事はせず、ただ、「すいません」と連呼しながら「何があっても泣きませんから、殺さないで下さい」といって鼻血を出しながら笑っていた。同じ奴隷が泣いただけで殺されたりしたため、いつも怯えて、誰にも心を許さない。という説明を聞いて、ほんの些細なことで問題視され、黙らされ、苦しめられた自分の子供時代のことを思い出した。そういえば、あの頃は泣くことも笑うこともなくなっていた。表情がなかった。ただ、もう話しても無駄だという絶望しか無く、もはや、あの家の人間とは心が離れていたと思った。私は彼らの前で怒っても、泣いたり笑ったりすることは、なかった。素直な感情を表に出すことは、ほぼなくなっていた。

表情が止まって、おかしくなっているコアラという少女
(ワンピース541話:17分30秒あたり)

思えば、このワンピースに出てくる少女のように、私は、他人から心を閉ざしていたのだと思う。自分がどうして、些細な事に気を回して不安になり、苦しむようになったのか、僅かなことに気を病む様になったのか、考えることが多いのだが、この少女の姿を見て分かった。些細な事で殺される奴隷の姿に、些細な事で責められた自分の子供時代を見た。私の子供時代の問題点は、何事にも我慢で切り抜けようとする祖母の発想にあった。何か問題があったら即、我慢させられたが、精神医学の先生によると、我慢というのは、単なる抑圧でしかないとの事。些細な事で抑圧されたので、ワンピースに出てくるコアラという少女のように、泣くこともなく「すいません」「すいません」と謝り続け、他人に怯えながら生きる心が私の中にもあるんだなと思った。(私は反論が許されなかった)

私の場合、なにか問題があると無条件に、自分が一人になって、そこへ何人もの人間が私を取り囲み、責められて、四面楚歌になり、味方が一人もいない不安(イメージ)にさいなまれる。自分で自分の心を閉ざしていたせいか、私の中に奴隷少女のコアラのような心があることに気づかなかった。だけど、泣きもせず、謝り続けるコアラの姿を見て分かった。なぜ、些細な事に自分が気に病むのかを、些細な事で抑圧されたからだ。それを未だに私の心が恐れ怯えてたからこそ、気に病むのだ。ほんの些細なことなのに、それを気に病む、些細な事が些細な事で片付けられないのは、些細な事で責められた過去が、そうさせている。それがどんなに意味のない事であっても、それが不安で仕方が無いのは、そういう事で私を責めた人間がいたからだった。心の中に奴隷少女コアラのように他者に対して信用が破綻した心を持っていたからだ。どこかに他人に対する信頼のようなものがあれば、私は些細な事を些細な事で片付けられたのだ。だが、ほんの僅かなことでも、問題にされ、苦しめられると思えば、不安で仕方が無くなる。それが私の心の闇だった。

こういう心の闇があると、些細な事で気が病み、体力と精神力を余計に浪費する。そして、恐れと恐怖で頭がいっぱいになって注意力が散漫になる。さらに恐怖で記憶力も減退する。(アメリカ軍の調査で恐怖が兵士の記憶力を減退させることが分かっている)それによって人間の能力が著しく制限される。さらにこのように弱体化した人間に対して、権威主義的な人間はハイエナのように弱者の気の匂いを嗅ぎつけて襲いかかってくるため、家族に対して抱いていた不安が、家族に限定できなくなる。そして、基本的に他人を信頼していないので友だちもできない。人生が極端に制限される。そう思うと、些細な事で人を批判してはいけないのだなと感じる。特に子供に対してそれを行うと、子供の人生を台無しにするが恐れがある。女性はそう言う事をしやすいので、注意が必要だ。(私がもし、子供を育てるとしたら、彼女たちのしたことと反対のことを子供に教える。彼女たちのように意味のない些細な事を事細かに注意するのではなく、大事な事とそうでないことをより分けて考えることを教える。私のいた家が普通の家と違うのは、苦しいとか辛いとか、そういう叫びでさえも忍耐で片付ける家であったこと、もっといえば、他人の苦しみに鈍感な家だった。そして、下のものを完全に黙らせる権力があった。子供の顔から表情を奪うくらいにそういうものがあった。つまり、子供が家族に恐怖を抱く家だった。暴力はないが、抑圧の厳しい家だった。強権があるので、反論が許されない。対話が成立しない。そういう家だった)

有能な人間は、物事に優先順位をつけて、的確に注意力を振り向けて仕事をやっている。私のような心に闇のある人間は、合理的には、それが一番だと思っていても、人間に対する信頼が破綻しているために、そのように考えることができない。注意力を意味のない事で浪費し、その結果、重要なことに注意が振り向けられず失敗する。要するに無能ということである。些細な事で人を批判し、苦しめるのは、人間を無能にする。人のためだといって、そういう事をする人間は質が悪い。なぜなら、自分が正しいと思っていることが、他人の人生を台無しにする悪事なのだから。悪を正義だと思っている人間は度し難い。