SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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自由と寛大さ

許容度を拡大し、ゆるやかな統合をイメージすると、互いに厳密なルールを設定しないことが重要だと気づく、互いの許容レベルを大きくすれば、結果的にお互いが自由になる。もので言えば、水の分子のようである。分子が互いに自由に動けるので、水は柔軟なのだ。しかし、互いの関係を固定化した時、それは、個体の分子のような状態になる。互いが密接に結合しているので身動きが取れない、常にひとつの状態を維持しようとし、個々の自由は存在しない。不自由な世界である。

社会において、自由を意識した時、互いの関係性に、ある程度寛大さが求められる。その時に私が義父から教わったルールは「他人の迷惑になっていなければお前の自由」つまり、他人の自由を侵害していない以上、お前の自由は保証される。つまり、これが他人に干渉しないラインなのだ。私はこのラインを意識しつつ、自由を主張し続けてきた。日本社会で問題だと思うのは、他人の自由を侵害していないのにもかかわらず、命令できると勘違いしている人間が多いことだ。私は未だにこの勘違いが理解出来ない。そのようなことをしてしまったら、互いに自由でなくなってしまい、窮屈なだけだと思う。だが、彼らは命令するのだ。理由はと聞くと、「皆がやっているから」と応えられる。皆と私は違う、皆の望みに私がなぜ応えなければいけないのかわからない、そもそも、そんな要求をする皆とは一体何なのか?という様な質問をすると、それは呆れた顔で、「それは常識であり、当たり前なのだ」と言われる。「その常識を守らなければいけない理由は、どこにある?」と聞くと、最初の常識に戻ってしまう。つまり、アレだ。彼らにとって「皆が常識」なのだ。最初に述べたように固体としての社会、液体ではないんだな。

「皆なんてどうでもいい私にとって、それは理由にならない」のだが、彼らにとって皆こそがルールであり、常識なのだ。私がそれを否定するのは、明確な目的もなく、単に集団であることが目的のような理由では、個人の自由が尊重できない。そもそも集団になる目的が明確でないと、その状況を限定できない。限定できなければ無制限に集団への迎合を要求できることになり、それは個の無制限の否定につながる。故に私は、そういう考え方には従わなかった。他人の自由を制限するためには、それに対する明確かつ正当な理由が必要であり、それは無限であってはならないのだ。そうでなければ自由ではないのだから。よって、条件を限定できる理由であり、かつ、それが正当でなければ従わないのが最低条件なのだ。他人の自由を奪う以上最低限、その常識は守ってもらわないとと考えるのだが、こういう考え方をすると自分勝手で異端的な人間として否定される。

そういう人間と話をしていると、とても疲れる。彼らの中には自分のイメージする「スタンダード」なるものがあって、それに従わないものを全否定するという極めてシンプル且つ危険な思想の持ち主である。とても寛容度が低い。そういう一つの意思に全体を統合するような考え方をすると、無制限に他人の自由を否定するロジックになってしまうということが分かっていない。まぁその程度のことも理解出来ない低能であるのか、理解した上で、それよりもさらにメリットのある状況があるのか分からない。ただ、彼らは皆という言葉を使うことから常に他人の評価を気にしていることが分かる。つまり、周囲との差違があることが彼らにとって苦痛なのである。同じであることが彼らにとって安全なことなのだ。だから、差異があるものを危険視して排除しようとする。私は、他人と同じ事を強要すると自由がなくなってしまうので、他人と同じことが好きという感覚はオカシイと思っている。異様だ。「違っているが同時に互いに迷惑をかけなければ、みんな自由で、それがいい」のだ。意識するのは他人の自由であり、独り善がりなスタンダードではない。他人の自由を常に意識しているからこそ、自分の自由も保証されると考えれば、お互いに対等な意識を持つことができるが、彼らの場合、いつも「みんな、みんな、みんな」なんだよね。他人じゃないんだよ。集団の最大公約数を常に意識している。だから、その集団の最大公約数を盾に個を否定できると思っている。だけど、それは欺瞞だと、他人を見ず、周りに対する自分の評判を意識する事は、自己保身の現れであり、コレほど自分勝手な考え方はない。そういう他人を露ほどにも見ていない彼らが私に対して「お前は自分勝手だ」というところに末期的な阿呆らしさを感じる。だが、その真実を言ったとて、彼らは、私に対して、最大公約数的な皆 「みんな」とやらをおしつけてくるだろうけれども。実態は周囲に対する恐怖心。私はお前の身勝手な恐怖など気にしてやる義理はないと言いたいのだが、それを言うと、おこられる。皆という言葉には、常に周囲の最大公約数に戦々恐々としている意識が垣間見える。皆と言いつつ、自己の恐怖心を代弁する言葉、それが「みんな」の正体なのだ。

一言、そういう人に言ってやりたいのは、「みんな、そんな事、気にしないよ」と言いたい。誰も他人にそんなに気にしてない。気にしてないから、考える必要もない。だから、それでいいじゃないかというのが、自分としてはベストな意見のような気もする。ありもしない最大公約数を設定して、それに他人を従わせるよりも、そんなものは存在していないという事実を伝えることが大事。