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SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

電通が創りだした村社会

科学 社会

子供の頃の私はいつも孤独だった。その影響からか、私は同調という習慣を持たずに育った。私が他人と同調しなかった理由は、体が弱かったからである。他人と同じ事をするのには他人と同等の体力や能力がいる。私は、その両方ともなかったと思う。動物のこどもを見ると、大抵、1匹は要領の悪いやつがいて、兄弟にエサを取られてしまうような奴がいる。自分の子供時代とはそういう奴だった。よって、弱さ故にはみ出し者になった私は、一般社会の常識とは隔絶した環境で育った。

私の子供の頃は、カラーテレビが普及し始めた頃だった。この頃からか、流行物を持っていないと恥ずかしいという風潮が生まれた。色々な消費財が提案され、それを皆と一緒に買わないと時代に乗り遅れていると非難されるという価値観の暴力がまかり通っていた。私は義父から自由というものを教わっていたので、他人と同じでなくていいということを知っていた。だから、流行に乗って物事をしない方が実はかっこいいのだと思っていた。映画でもはみ出し者の映画が好きだった。

この流行というやつがクセモノで、特定の価値観を皆がやっているからという理由で他人に押し付けてくる。今から思えばテレビが創りだした洗脳だった。私から見ると流行しているものは、ちっとも魅力的じゃなかった。私の子供時代は、恐竜、宇宙、コンピューターが好きな子供だったので、流行なんてどうでもよかった。限りある小遣いを自分の好きなことに有効に使うためには、流行に合わせるなどという無意味で多大な出費など全くもって無価値だった。

流行を無視し続ける私に周囲はお前は変わっていると言ったが、私に言わせると、私の行為には、きちんとした理由があり、自分の好きなことにお金を使っているのであって、何も変わったことなど何もない。むしろ、そういう「まとも」な自分に対して、オカシイといってくる人間の方が「おかしい」のであって、訳がわからないというのが、子供時代の私だった。子供の私には電通の洗脳は効かなかったのだ。電通の提供してくる価値観よりも自分の好きなものの方がはるかに強力だったのだ。つまり、私の「好き」は、電通の「好き」よりも強力だったわけだ。でも、そんな価値観は誰でも本当は持っているのだ。食べ物の好き嫌いがあるように、それは、誰にでもある普通の価値観、違うのは、私はそういう人によって違っていて当たり前という考え方を価値観の全域に向けているのに対して、洗脳された人たちは、それをある部分に対して適用し、ある部分には適用しないという運用の仕方をしている点だ。それも電通の操作したとおりに。私が操作されなかったのは、電通の言ってくることは、どうでもいいくだらないものにしか見えなかったからだ。極めてくだらない。意味がない、馬鹿げている。

思えば、コマーシャリズム主体の主張には、薄汚さと見るからに見窄らしさが同居しており、人間の美意識が、そのコマーシャリズムを上回ると、まったくもって洗脳は効かなくなる。クズにしか見えない。自分の好きなものの方がはるかに美しい、よって、洗脳を解く手段は、本来の美意識、他人に植えつけられた価値観よりも遥かに優れた価値観を持ち、それと比較することである。自分の好きなことに偏る私にとって、電通の主張は無意味なのである。よって、電通の言ってくるものよりも好きなものを持つべきというのが私の提案である。さすれば、洗脳は解ける。

カラーテレビが普及していなかった時のほうが、人はよく考え、自分の価値観を持っていた。その個人個人、独自の価値観がコマーシャリズムに抵抗出来るだけの強力なものだったが故に、昔は、それほど同調を他人に要求することはなかった。それがひどくなったのはバブル崩壊以降(手塚治虫死去以降)に極端におかしな村社会が創りだされ、個人の自由と言いながら、実際には、テレビのコマーシャルや番組で電通がデザインした自由をただコピーしている偽りの自由が社会に広がっていった。そうやって極端な同調を自由の名の元に他人に強制する社会になっていった。私に言わせると、自由というのは個人個人が違うものであって、他人が自由だといったことを自由だと勘違いして皆が同じ方向を向くことではないのだ。それぞれが自分の考えに、自分なりのきちんとした理由を持っているのが自由である証なのだ。しかし、最近、議論すると、自分の考えにきちんとした理由が無いので、ちょっとつつくだけで瓦解してしまったり、自分に一方的に都合のいいコミュニケーションしかできないおかしな人間がいる。コピー人間同士なので、独立した価値観のぶつかり合いがないためなのか、違う価値観を認めながらも、対等な条件で他者と議論するという基本的な事ができない。そうでないと、まともな話ができないという事が分かっていない。お互いが同じでないと都合が悪いという未熟な自我しか持っていないのが多いと感じる。同じだったら、対等な条件を設定して議論する必要性が無いので楽だけど、反面、同じでなくちゃいけないから自由がなくなる。私は父から自由の素晴らしさを教えてもらったから、他人の価値観の押し売りを突っぱねる価値観が自然と身についていたのだと思う。だから私は電通コマーシャリズムに対し「自由は美しい、だけど君は醜い」みたいな感じで突っぱねることが出来たのだと思う。

私は義父が私に自由を教えてくれたように、自由の素晴らしさ、美しさを伝えることが出来たならば、それよりも醜い電通の洗脳など、たちどころに溶けてしまうと思う。なぜならば、それは汚く醜く、どーでもいいものなのだから、自由に比べて...
 

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