SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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人間でつまずく私

子供の頃、遠足の感想文で「歩くの大変だし、めんどうだな」という趣旨の文章を書いたら義父に怒られた。「なんだこりゃぁ、遠足だったら、もっと楽しいこと書け」と言われたが、実際つまらないのだからしょうがない。どうも自分は楽しいことを考えるのが苦手のようだ。私は、何かをやるときにいつも困難なことを思い浮かべてしまう。だからこそ、行動が萎縮してしまう。

「結果を出す」ということのみを見ると厳しいようだが、それを「結果が出る条件を整える」という解釈にすると、幾分かストレスが和らぐ、これは、節約術に通じるものがある。節約というのは目標レベルの範囲内で物事をこなすことなのだが、問題が数値で存在するため、分かりやすい。数値を比べて結果が出る条件を計算できるので節約というのは、結果が出しやすい行為だ。

問題が数値で存在するため、それを計算して整理すれば、結果が出る条件を導き出すことができる。お金で言えば、1ヶ月の食費を1万円以内にするのならば、1週間の食費は2500円以内ということになる。その範囲内で何が出来るか比較検討して、栄養バランス、おいしさ、などを検討して、どこまで出来るかどうかを算定する。もっと言うと、1ヶ月に使う米などかならず使うお金を差し引いて、実際に自由に使えるお金から算定すると、一週間800円程度が自由に使えるとか、そういう計算ができる。

要するに仕事とは、そういうタスクの整理整頓と、その実行の繰り返しである。私が困難だと感じるのは、数値化できない要素、他人との交渉、条件がアバウトな状況など、数値化出来ず、整理することが難しい課題が飛び込んでくると、途端に嫌な感じになってくる。「難しい...」と感じる。どれくらい時間がかかるかも分からないし、どんな問題が生じるのかも不明、そういう種類のことを考えると非常に不安になる。特に他人が介在することになると、相手が存在するので、それに配慮しつつやるというのが非常に面倒くさい。結果が出る条件が不明である事が不安なのだ。人間よりも10円玉や100円玉を数えている方が非常に分かりやすい。私の人間に対する苦手意識は、要するに子供の頃から変わらない。要するに数値化できない。それに対して、ものだと、そこら辺は分かりやすい。ものには感情はないので、何度失敗しても、黙っている。人間は失敗すると怒るので煩い。もので失敗しても黙っているので、Check & Tryを続けていけるが、人間は無理、データが集め辛い。こういう時に社交性がある人間の場合、過去の経験というデータベースが使えるが、私には皆無、故に、私は大抵、この人間という要素で頓く。

人間は合理的とは言えない、数値で合理的だといっても、権力や権威が十分でないと了承しないことが多い。私は「権」がつく要素を整えるのは、非常に苦手であるし、そもそも、そういうものを蔑んですらいるので、どうして、そんなものを大事にするのか分からないというのが、私の発想。要するに私にとって妥当なのは、数値であり、権力ではない。彼らと私の違いは

彼らと私の違い
 私 :数値 > 権力 合理的なのが正しい(指向性:より合理的であることが良い)
  行動:客観的であることが重要なので、データを集めることが重要
 彼ら:数値 < 権力 権力があることが正しい(指向性:皆が集まるほどよい)
  行動:寄せ集まることが重要なので行列に並ぶ

この違いは何かというと、一人と集団の違いである。一人でいるときに重要なのは権力ではなく、客観性である。問題を解決するときに数値が一番頼りになる。コレに対して集団の中で問題を解決するには、まず、合議を成立させるために権力(説得力)が必要である。これによって意思が発動できる条件が整う。そこからの行動は、集団のリソースが活用できる。能力のある人間がその集団にいれば、出来ることが広がる。重要なのは人間である。つまり、その人間を動かす権力が最重要ということになる。

一人でいた私にとっては、数値で可能なのに、なぜ出来ないのかということになる。つまり、あとは、数値を満たすために行動すれば、それは十分可能だと考えるのが私である。しかし、集団で生きてきた人間にとって、それは違うのである。その数値を皆が納得できないとダメだと考えるのである。数字が合理的だから正しいと考えるのは、短絡的だと考えるのが彼らの思想であるが、現実問題として、いくら皆が正しいと思っても、数値が整わなければ、絵に描いた餅なのである。そういう形で彼らと私の議論はいつも平行線をたどるのである。