SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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価値は、説明によって生じる

価値は説明(信用)によって生じると思うのは、科学的に見て全然価値のない化粧品を何万円も出して女性が買うという現実を見ると感じる。例えば、コラーゲンやビタミンCを肌に塗っても全く意味がないのに、それを塗れば、さも肌が良くなると信じる事で、そこに大金が支払われる。実際は、全く意味がない。コラーゲンやビタミンCは、体の中で機能するのであって、皮膚に塗っても意味がない。体にとっては異物として認識されるだけで、取り込まれる事はない。塗って効果があるのはマグネシウムで、これを塗ると皮膚の修復能力が高まり、保水性が高まる。実例として、温泉に入ると肌がスベスベになるのは、このマグネシウムの効果である。実際にそういう化粧品はあるが2000円程度で手に入る。しかも、水を入れ替えれば何回も使える。(私自身は、これを化粧品ではなく、ドライアイを治す為に使った。ドライアイは目の表面の細胞が何らかの理由で損傷し、保水力が保てなくなった状態)

私がドライアイを治す為に使ったマグネシウム溶液
「すいそいんぐ」(2100円)

頭皮の炎症を治す為に使ったマグネシウム入りの石鹸
ヴィダ ミネラル石鹸(263円:池袋のloftに売ってる)

この石鹸の口コミ情報のリンク

つまり、肌を良くする為に女性が買うべきなのは、何万円もする化粧品ではなく、数千円のマグネシウム溶液なのだが、大半の人は、価値がどーでもイイ、何万円もする高価な化粧品を買うわけである。非常に馬鹿げているが、その様に信じたものにお金が支払われるのだ。つまり、お金とは現実に支払われるのではなく、その様な現実があると信じた事によって生じる。きちんと現実があっても、それを信じてもらえなければ価値は生じないのである。

皆が信じているから、自分も信じるという信用形態があるが、それは、皆と呼ばれる沢山の人が検証したという前提に立っている。しかし、実際には皆が信じていても実際には、検証なしでも沢山の人々が信じる事がある。アメリカのラジオでUFOが襲来したというジョークを流したら、本当にUFOが来たと勘違いした人が続出した。つまり、皆が信じるという状況は、放送メディアの拡散力と優秀なコメンテーターの表現力でも生じるのである。つまり、人工的に「みんな」というのは作れる。それがあたかも、検証された真実かのように感じるのは、自分と同じように信じてしまった人が沢山いるからである。でも、それは、何も検証されていない。ただ、メディアの拡散力とコメンテーターの優れた表現力によって生じた集団認識に過ぎず、多くの人によって検証されるというプロセスを経てはいないのだ。子どもの頃、孤独だった私は、集団というものが大した事がない事がわかっていた。集団に依存している人は、自分自身で情報の検証を行わない、こういう人が沢山集まると、検証なき信用が生まれる。要するにゼロがいくつ集まっても、ゼロのままなのだ。重要なのは、検証を経た情報なのか否かである。例えば、音楽で言えばクラシックだが、名曲が残っているのは、時とともに沢山の人の検証を経た結果である。

さて、世の中が大して当てにならない集団を信じていると苦言を呈しても、世の中が明日から、賢明なる検証を行うわけではない、ここで書いたのは、どのように人が物事を信じるかという事であって、説教ではないのだ。

事実とは異なるものをベースに信用が生じるメカニズムを伝えた。その中で特筆すべきが、実質的な検証がなくても信用が生じる事から、なにが、人々の信頼を生むのかというメカニズムが分かる。それは、検証された情報である事を証明する事である。もっと正確に言えば、検証をいかに容易にするかという事が大事である。科学的事実を述べた場合、科学的教養があれば検証できるが、学校の科学の知識は忘れたという人には、そういう事は通じない。そういった教養がなくても、検証が可能な情報に加工する事が重要なのだ。

そこで重要なのがストーリー、ストーリーは手順にそって、複雑な状況を把握するのに役立つ、物事は複雑だ。そういう事を難しい言葉で書くよりも、その過程を物語にする方が分かりやすい。つまり、物語によって、複雑な過程を検証可能なものとするわけだ。検証可能となれば、納得がそこに生まれ、それが信用となる。

昔、私が言うとダメだったのが、同じ事を別の人が言うと素晴らしいと評価されたのは、多分、それを言ったのが優等生の言葉だったから、つまり、優等生という検証可能な存在が言ったことは信じてもらえて、凡人の私が言うと、検証不可能な為、ダメという事だったわけだ。優等生でない私が、人に信用してもらうには工夫が必要だ。優等生には、優れた成績を収めたという実績があり、私は普通だったので、そういう実績がなかった。だから信用がないのだ。(つまり、学校の成績が間接的に検証内容となる。あいつは頭がいいから正しいのだろうという事になる)

信用が生じるのは、その内容よりも、どちらかといえば、人に影響を受ける。特に日本という国では、その傾向が強い。だが池上彰さんを見れば分かるように優れたプレゼンは、肩書きとかそういうものを超えて、信用を獲得できる。なぜ、池上さんが信頼を勝ち取れるのか、それは、検証可能な情報を伝えているからである。彼のプレゼンには質問者がいる。なぜかというと、検証そのものを実際に行う事によって、検証可能となり信用が生じているのだ。質問者に誰もが疑問に感じる事を聴いてもらい、それに池上さんが答えれば、自分が聴きたい事を池上さんに答えてもらったと疑似体験が出来る。この疑似体験こそが検証となり、それが信用になるのだ。

わたしが信頼されないのは、言っている事が検証が出来ないからである。検証可能な状況を作り出さない限り、他人がわたしを信頼する事は出来ない。逆に検証可能なプレゼンが出来たのならば、私のような人間でも信用される。そういう事である。そして、その信用が価値を生じさせる。

検証社会の閉塞性(受動的認識の限界)
イノベーションを認める為には、検証可能であるよりも、面白いかどうかで決める。可能性を主体的に見積もり、それに対して是非を判断する。これは、主体的な決断であり、他者の検証を必要とする受動的な決断とは違う。だが、今の日本人は検証100%状態という不甲斐ない状況なので、未知の状況にも既知のレベルの検証を求める。失敗したら村八分にして袋叩きが待っているような事がある。これが結果として、経済成長を妨げている。だが、この臆病な体質は日本の歴史を見ると、何千年も続いてきた事であり、明治維新天皇を中心に国がまとまったのも、ある意味、天皇の検証があって、国がひとつにまとまるようなところがあった。だから、この伝統は覆せないが、だが、その中でも過去のソニーや本田などのオーナー社長がいた時代は、イノベーションを率先して行う事が出来た。そういう意味では、イノベーションを行える権限が生じれば、日本人にもイノベーションを行える可能性があるのである。信長のような人材も、一国一城の主であって始めて成立する。

検証7割、未知が3割、このくらいがイノベーションを行う上で妥当ではないかと思う。失敗を繰り返す事で、未知の3割がなくなっていき、最終的に成功する。最初から10割の検証を求めるのは行き過ぎだ。ある意味、そんな検証が出来る時点で古いとも言える。