SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

命の重さ

原発事故に対する官僚たちの国民に対する姿勢は、非常に人間的ではなかった。命の重さを軽んじている対応が見て取れた。ただ、これは昔は違っていた。命の問題になると一つ上の基準で考えるのが常識だった。今は、そうではない。
 
命の扱いが軽くなったと思えるのは、感覚としての命の意味が分かってない人が増えたからだと思う。昔に比べて、文明化した社会では、死は遠くなった。危険なものは少なくなったのだ。その結果、死にそうになる体験も少なくなった。また、あらゆるものが過保護になりすぎ、過剰な安全を求める過程で、人間の感覚から、命の意味が分からなくなっていると感じる。
 
それは、電気や水道が止まった時に分かる。失った時に分かる価値というものだ。つまり、失うというイベントが生じないと、その価値を実感する事はない。故に命が軽くなったと言うよりも、命の価値を「知らない」という方が正確なのかもしれない。命がある事が当たり前だと思っていると、その価値も分からない。それほど価値のあるものとも感じないのだ。
 
命の価値に対する無知、それが現在の社会の病巣である。私は、何で命の価値を感じたか?川で溺れそうになったり、吹雪で半分氷漬けになったり、体育のマットの中に閉じこめられて窒息しそうになったり、色々と死にそうな目に遭って、その度に命の価値と言うもの、重さと言うものを感じてきた。思いだしたくもないのだが、忘れてはならない事だとも思う。溺れる時に、確かにフィルムが巻き戻るような走馬灯が見えた。だからこそ分かる。命の重さが。
 
命の重力が、だが、今は無重力だ。まるでそれが存在しないかのように軽んじられている。これは、人間の尊厳を尊重する上で問題なのだが、その価値を理解するのに、死にそうな目に遭えとも言えない。なぜなら、危険だから。教える事が難しいのだ。ただ、言える事は、死にそうになったら藁をも掴む思いになる。そして、死の恐怖を感じた時には、胃の中に鉛が入ったかのようにズシリと重い感覚がする。そういう体験は二度としたくないと思うような重さである。故に命は大事にするべきだとしか言えない。最近、それに近い感覚になったのは、3.11で地震が起きた時、東京は震度5強だったが、既に私は霧島山の噴火を見て、いつ首都圏に大地震がきてもおかしくないと思っていたので、揺れている間、それが来たかと思って観念していた。
 
でも、揺れが収まった時、まだ猶予があると思った。そういうところからも命の価値が分かる。あの地震で多少は、その命の価値が分かった人も多かったと思う。そういう意味では、社会の空気が3.11以後では違ってきたと感じる。

オヤジと命について話した時、「金はあとで、いくらでも取り返しがつくが、命は一度失ったら取り返しがつかない、だから、命と金は違うのだ」つまり、金の論理で命の事を語るのは、根本的に違うものを同列に扱っていると言う事なのだ。
 

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