SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「限界を知る」:無制限の批判をしない

私は、アメリカの議論と日本の議論を見ていて、日本の議論がおかしいなと思うのは、批判対象に無制限の要求をする事なんだ。限界が存在しない要求、でも、それを実現するのは不可能だったり、あるいは、出来たとしても非常に無理があると言うもの、そういう批判をしても水掛け論になるだけで意味がないんだよね。なぜなら、無理な事を要求している駄々っ子とやっている事が同じだから。つまり、「あのおもちゃが欲しい」と言って、お店の床に寝転がって駄々をこねる子供と同じで、それはあまりにも限界と言うものを知らな過ぎる主張だ。
 
福島第一原発の問題でも、センサー系のシステムが電源がダウンして使えない状態の中では、目隠しをしながら対処しているようなものだったので、「なぜもっと事前に対処できなかったのか」と批判されるが、現実は何も見えない上に複数原発が異常な状態に陥っているという適切な対処を行う条件が整っていないという状況を考えれば、ある程度は無理からぬ事と解釈する事も出来る。いい批判とはそういう現実を踏まえた上で、建設的な意見を述べる事である。だって無理な事を要求しても無意味だもの。見えないものを後で見えている状態になって文句を言うのは、後だしジャンケンと同じだしね。そういう後だしジャンケンをしている人間を批判しないのもおかしい。それは建設的ではない。実行不可能な無理な提案など意味がないからね。
 
相手の状況を踏まえた上で出来る可能性を検討するのが大事だと思う。そうでないと無意味な水掛け論の応酬になるだけで、話が全然まとまらないし、実効性もないから。センサー系が機能しなかったと言う問題から見れば、それが機能不全に陥らない様にするにはどうしたらいいかとか、電源がダウンしないように別系統の小電力系に接続し、センサーだけでもバッテリー駆動で動くとか、そして、重要な操作は手動操作でも出来るようにしておくとか、ロボットで出来るようにおくとか、限界から導き出される対処法がいくつも出てくる。そういうのって、非常に現実的なんだよね。なぜなら現実には限界は付き物だから、限界を無視した議論って、全然建設的じゃないんだよね。例えば、日本の原発は安全で、事故は起きない。これって無理があるよね。人間が作ったものは絶対しくじるもんなんだよ。つまり、失敗をするという限界がある。その限界を無視してしまったため、いざシステムの問題を自然に突破された時、何の手も打てなくなってしまった。その結果、今回の原発事故は大きなものになってしまった。非常に幼稚だよね考え方が、発想が極めてチープ。防御網が全くないところを攻撃される様な脇の甘さがある。そういう限界を弁えないところに、日本の危機管理の甘さがある。絶対確実とか、絶対安全とか、そういう無制限の要求は、事故の元、限界のある現実を直視してこそ、危機管理と言うものは実効性のあるものになる。社会もまた、完璧な安全を求めるだけでなく、現実的な安全を求めるべき、私が原子力をやめるべきだというのは、どう考えても、しくじった時の問題がでか過ぎて割に合わないからなんだ。つまり、絶対に何らかの形でしくじる事を前提にすれば、原発のような危険なものは、出来ればない方がいいのだ。
 
しくじると言う前提、つまり、物事の限界から考えると、どう考えても防ぎようがない。ならば、そんな危険なものよりも失敗しても問題が軽微な分散型電源や、スマートグリッド、省エネに注力した方がいい。失敗を前提にすると、そういう結論になる。
 
例えば、原爆に使った放射性物質の量は0.8kg、しかし、原発一基の格納容器に入っている核燃料は1000kg。実に広島原爆1250発分なのだ。この数字からみても、しくじった事を前提にしたら危なくて危なくて、ない方がいいと思ってしまう。原発をなるべく早くなくせる社会を構築する必要があると考えるのは、そういう限界を前提に考える視点に基づいているからなんだ。つまり、私は、「人間のやる事は必ずしくじる」というキリ(最低)を前提にしている。よって、そのキリから見ると、原発はとても危険なもの、原発一基だけで広島原爆1250発分の核汚染が可能なのだ。最低状態を前提にしない事で、今回の原発事故は起きた。ピン(最高)とキリ(最低)の両面を把握し、そのどちらにも目を光らせて対処する事がニュートラルな視点となる。ピンだけじゃダメ、キリだけでもダメ、両方分かってこそいい。無制限の要求などと言うピンを前提にした議論は幼稚、現実の経験則を無視しすぎと言えなくもない。失敗しない奴がいるのか?と質問した時、誰も答えられない。なぜなら、人は誰でも失敗するから。その失敗をしないと言う前提は、非常に危うい。実際、その危ういところを自然に突かれてしまった。しかし、同時に外部電源を高台に置いておくだけでも、今回の放射能汚染は防げたのだ。それは、自分たちがしくじる事もあるという前提に立てば、高台に外部電源を置く事だってできたはずだ。だけど、それが出来なかったのはキリ(最低・最悪)を無視していたからだ。キリを理解する事が危機管理に必要な事である。日本は、平和ボケといわれるが、確かにその通りで、長い事安定して安全な社会にいたからこそ、最低がどういうものか分からなくなっていたのだと思う。それ故に発想が甘くなってしまった。つまり、限界を知る事も、キリを知る事も、ある意味、根っこは同じ。限度と言うものを知れと言う事なのだ。