SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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受動的発想が無責任を生む

社会を眺めていたり、自分自身を見ていると、無責任というのは、受動性から生まれていると感じる。だけど、受動的でありながら無責任でもない人もいる為、一概には言えないのだが、受動性は、無責任を生みやすい。責任を主体的に動いた人間に転嫁し、自らは責任を回避する。このような事を繰り返すと、誰も手を上げて何かをやろうとする人はいなくなる。無責任社会の出来上がりというわけだ。歴史上では、ナチスドイツの幹部が戦後、裁判にかけられた時、秘密警察の幹部が、「私は上司の命令に従ったまでだ」と主張した時には呆れたが、ある種の受動的社会では、無責任がシステム化され、強化される事によって、暴走が止まらなくなる。それに比べると、子供の頃のガキ大将を補佐していた回りの上級生の方が、今の大人より数段立派だった。互いに責任を分担していたので、結果として暴走がない。互いの主体性が暴走を食い止めるのだ。
 
3.11で、官僚の無責任な国民に対する虚偽行為が明らかになった。「原発は安全です」別に安全ではない。アレだけの高エネルギーの物体が安全であるはずがない。何重ものシステムで封じ込めていても、運用する人間が無能だと、どんなシステムも破綻するというのは歴史を知っていれば分かる事だった。私は友人と昔、議論した事がある。「日本人の発想の甘さでは、核のような危険なものは扱えない」と言ったのを思いだした。あれだけ危険なものを運用するのには、考え方が甘すぎるのだ。
 
例えば、メディアが菅直人が問題だというだろうが、早い段階でベントを彼が指示していたのにも関わらず、それをしなかった東京電力、なぜならば、一基、数千億と言われている原子炉を廃炉にするリスクを誰も取らなかった。誰も責任を取ろうとしなかった為、誰も決断せず、結果として最悪の事態を招いた。決断が出来たのは、誰が見ても廃炉にするしかないという危険な状況になった後だった。あれだけ、危険なものを扱うのに、明確な技術責任者の所在が皆無であった事が、対応の遅れに繋がったのだと思う。それは、システム上の欠陥と言わざる負えない。そういう意味では、そういう無責任状態を放置、または構築した、前の政権、つまり、自民党にも大きな責任があるし、それを選んできた国民にも責任がある。
 
だから、選挙で自民党を選ぶという事は、その過ちを繰り返すのかと思う。なぜなら彼等は、問題を現政権に転嫁しているが、その転嫁し、自らの責任を問わない姿勢こそ、この原子炉の暴走を止められなかった発想そのものなのだ。だから、私の見るところ、民主党が無能だからといって、無責任な自民党に票を入れるのは間違っている。問題の元凶を作ったのは、そもそも連中なのだ。あれだけ危険なものを管理するのに、明確な技術責任者(1人)を置かず、数々の原発の欠陥の指摘にも耳を傾けず、仕事は官僚に丸投げして責任をとろうとせず、ただただ、利権を貪ってきた政権、それが自民党という政権。私は、無能よりも無責任の方が性質が悪いと思っている。能力がなければ足せばいいが、無責任は、その努力すらしないからだ。つまり、それ以前の問題なのだ。私は、小賢しい狐よりも三国志張飛の方がよっぽどマシだと思う。孔明が好んだ武将は、愚直な張飛だった。なぜなら、愚直であればこそ、その愚かさを自覚し、向上しようとする姿勢があるが、小賢しい狐は、そういう事はしないからだ。(狐は、他人のせいにして逃げる)
 
だから、受動的にならず、主体的に考え、皆で責任を分担しよう。そうすれば、自ずと何が正しいのか見えてくる。何が問題であったのか、そして、何をこれからするべきなのか?安易に魔女狩りをしても、問題の建設的な対応にはならない。問題の本質を直視する事こそ、重要なのだ。即ち、この問題の元凶は何だったのかと...
 
それに安易な魔女狩りばかりをしていると、誰も責任を持って仕事をしなくなる。(手を上げなくなる)有能な人は、それがどういう状況か分かっているから、有能な人ほど出てこなくなる。