SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

ダメな評価

ダメな評価について考えてみた。人をダメにする評価の仕方というものを紹介し、その上で、もっと常識的な評価の仕方を提案する。これは、私の義姉をダメな評価のサンプルにした。彼女の反対の事をやって私は人を元気にし、成功に導いたからだ。そして、ダメな評価を養護する構造がダメな評価以上に問題である事も紹介する。
 
ダメな評価
 
1.状況を把握しないダメな評価

  • 義姉は、私が何か出来ない事があると、努力不足、怠慢などといって非難した。これの何が悪いのかというと、相手の状況を見ないで非難する事が問題なのだ。生まれつき消化器系が弱く、食べても太れず、筋肉もつきにくい私は運動をやっても全然成果が出なかった。そういう人間に対して、義姉は単純に努力不足と決めつけて批判した。相手の状況も、自尊心も全く計算せず、そういう事を言うバカな人だった。そういう無遠慮なことを言っていいのは、言われた事を跳ね返せるだけの覇気(気力と体力)のある人間のみ、そうじゃない人間に単純に結果が出ないと批判しても逆効果なのだ。なぜなら、力のない人間は、自分の力のなさに絶望している。その絶望に拍車をかける事は逆効果である。そういう人間に必要なのは、励ましと適切なアドバイスだ。力のある人間だって元気がない時には、それが必要なのだ。義姉の問題点は、相手の状況(能力、自尊心、体力)を全く考慮に入れず、タダ単純に結果のみで人を非難した事である。

 
2.ダメな評価を更にダメにする事なかれ主義(道義に欠けた行為)

  • さて、単に義姉がバカという程度ならば、私は無視したり、適当にあしらっていれば良かった。酷い場合には、文句を言えばいいのだが、それをさせない存在が私にはいた。祖母である。義姉は相手の状況も考えず、無遠慮なことを人にいい、人を傷つけた。当然、文句を言われてしかるべきである。実際、私は文句を言った「あんまりではないか」と。しかし、祖母は、争いから自分が逃げる事が大事なので「我慢しろ」と言った。義姉は人を傷つけるような事を言ったのだから、当然罰せられなければいけない。それが道義というもの。それを家族に守らせる器量というものが祖母にはなかった。いつも「我慢だけの人」だった。命令できる権力を持っていても、それを運用する意識に欠けた人だった為、祖母が否といってしまうと、それ以上の追求は出来なくなる家だった。祖母の悪いところは、悪い事をした人間を罰しない事。上に立つものは秩序を保つ為に、場合によっては泥をかぶらなければいけない。しかし、その泥をかぶる覚悟のない祖母は、いつも他人を我慢させて片づけた。こういう被害者に追い討ちをかける行為をやると、弱い立場の人間は更に弱くなってしまい、何かが壊れる事になる。この場合は、私の自尊心だった。一回程度ならばいいけど、100%結論が決まっている状況が何回も続くと絶望を生む。その絶望が人の心をへし折る。バカはバカで仕方がないが、それがバカだと分かっていながら、それを放置するだけでなく、養護してしまう事で人を黙らせて、その黙らせる行為をもって家の平和を守ったと勘違いしている祖母は罪深い。事なかれ主義の正義には道義に欠けている。その結果、悪い者はのさばり、虐げられた者は傷つきボロボロになっていく...弱者をより弱者にして苦しめる。そうやって彼らは人をダメにしていくのだ。

 
まとめ

  • この二つの事例から分かる事は、まず、結果から単純に批判してもいいのは、それを跳ね返す覇気のある人間限定だということ、力を持っていても覇気のない人間すらいるのである。そういう人間にはまず、気力を持ち上げてやらなければいけない。それもせず、ただ単純に結果だけで非難するのは間違いである。そういう考え方では人は育たない。むしろダメにする。ダメにならないのは一握りの人間だけで、大多数の人間には適用できない。そういう覇気があってダメにならない人間を出来る奴として評価する傾向があるが、それはダメなマネジメントでも成長する奴という事であって、そういう事をいうのは、マネージャーとして私は無能ですと言っているようなものである。私も覇気のあるやつを怒らせて頑張らせる事があるが、それは慎重に状況を選ぶ、覇気のあるやつを怒らせると爆発的な力を発揮する。しかし、そういう人間に対してだって、私は元気がない時には、相手の能力を褒めたりして気力を持ち上げたりしている。相手の心の流れに応じて、出来るときとできない時を見計らう。義姉の場合、そういう慎重な対応を全くせず、タダ単純に目の前の結果だけで物事を評価してしまうところがダメなのだ。それによって、彼女は人をダメにしてしまう。そういうダメな義姉の評価と反対の事をすると、面白いように人が能力を発揮するので、私は、義姉が間違っていたとハッキリ言える。

 

  • 単純に結果のみで人を評価するのは、人をダメにするのであり、人の評価は、状況を踏まえながら、時と場合を選んで、元気がない時は励まし、自信がなさそうだったら、本人の能力を褒めて元気づけたり、何をすると面白いのかとか希望の持てる事を言ったりするのが望ましい。他人を非難して絶望を与えても無気力が返ってくるだけである。ダメな評価とは、人の内面を絶望で埋め尽くして滅ぼす事であり、良い評価とは、その逆に希望で満たして生かす事である。希望の炎が常に燃えている奴は強いが、それがあるのは限られた人のみ、大抵の人は、そういう事が出来ない。湿っている心に火をつけてやる作業が必要である。それを省いて、ただ絶望という水をぶっかけてはダメなのだ。希望という風をふかせて、湿った心を乾かし、頃合いを見計らって火をつけてやるのが良い評価というものだ。私は、声の調子で感情が、言葉から考え方の方向性が分かる。普段よりも踏み込んだ事を言ってきていると、「ああコイツは、いま調子がいいんだな」と分かる。それが慢心かどうか、現実的であるかどうか、慎重に見極めて、火をつけるかどうか決める。火の付け方は、覇気のある奴には怒りを、そうでない人間には希望で対処する。(あるいはその両方)良い評価とはオーダーメードであり、決まった一つの形があるわけではない。ただ言えるのは、相手の心にフィットする優しさがあれば、それは結果として良い評価になると言える。そういうものを捨てた機械的な単純な評価では、大抵の人がやる気を失ってしまうダメな評価になるだろう。

 

  • 私は、そういう他人に対して良い評価を心がける事が出来たのは、他人の場合、客観視できる事と、義姉の冷たい言葉がどれだけ自分を傷つけたか想い出すと、ああいう喋り方をしてはいけないと思い、人の心をきちんと見ながら喋る事が結果として人を励ます言葉になる。しかし、それを自分に対して行う場合、自分を励まし勇気づけようとすると、それが逆に不安になってしまうのだ。なぜなら、私がそうやって自分を勇気づけようとした時、義姉は、私に言い訳と言っていると私を非難した。そういう時に私が文句を言うと、祖母が出てきて「我慢しろ」の一点張りをされて、にっちもさっちも行かなくなるのが、子供の頃の私の状況だった。つまり、当時の私は自分を励ます事すらも「我慢しなければいけなかった」酷く馬鹿げている。しかし、そういう馬鹿げた事をしてしまうおかしな家だった。1人はバカ、もう1人は臆病、バカと臆病を私が評価する必要はない。良い評価とは、そういうバカと臆病がもたらす結果を理解し、その逆をする事である。

 

    • バカな人がバカなのは、反省しないから(己が正しいと過信し、成長がない)
      • 反省すべし、己を省みてこそ賢明といえる
    • 臆病な人が臆病なのは、絶望しているから(希望を持とうとしないから臆病)
      • 絶望という逃避は何も生み出さない

 

  • 私に対するダメな評価は、バカの間違った評価を臆病者が認めてしまう事で生じていた。バカは何を言っても無駄なので仕方がないが、臆病者に権威があると、己の絶望を権力で正当化してしまうので性質が悪い。しかし、その構造を理解すれば、ああ、彼女らの言っている事には何も正しい事はなかったんだと分かる。つまり、相手がバカであるからこそ、自信があり、臆病であるからこそ間違った事を認めてしまうのだ。分かってしまえば、何の事はない、タダのクズだったと分かる。不安に思うほどの事ではなかったのだ。私が分からなかったのは、明らかに間違っているのに、なぜあんなに自信があるのか?そして、その間違った事をなぜ認めてしまうのか?その理由が分からず、対処の仕方が分からなかった。分かってみれば簡単でバカは無視する事、臆病者には勇気か無視、それでなければ、それを上回る恐怖で支配する事が望ましい。子供の頃の私は、そこまで相手が自分よりもバカだ(非常識)とは思わなかったし、臆病だとも思わなかった。しかし、大人の私から見て、子供の頃の私は、彼女達よりも常識的で勇気が(まともな感性が)あった。だからこそ、彼女達が理解できなかった。ダメな評価だと思いつつ従ったのは「そこまでダメだとは思わなかった」というのが正直なところである。

 

  • 三国志の龐統(多分、自分が影響を受けたのは人形劇の三国志だと思う)
  • 参考飼料:Wikipedia 龐統
  • 引用
    • 龐統は人物評価を好んでおこなったが、その場合はいつもその人物を過大に評価をしていた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎくらいの評価をして名誉欲を満たしてやらなければ、善事をおこなう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。