SKY NOTE

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失敗に敬意をはらう

今日で21世紀最初の10年が終わります。そこで、次の10年のために必要な考え方を考えてみました。それは「失敗に敬意をはらう」です。
 
失敗を避けるのは、失敗に敬意を抱いていないからだ。失敗に敬意を持つ必要があるのかと思うかもしれないが、挑戦が成功する為には失敗は必要であり、ある意味、失敗とは成功の一部であるとも言える。つまり、成功とは失敗によって構成されている。だから、失敗に敬意を持つ必要がある。成功の一部として。
 
また、私は、失敗を責める他者を恐れていた。失敗するとそこで終わりだった。でも、それは子供の頃の事、大人になった私に対して、そのような管理が出来るはずもない。
 
新しい事をやるのに失敗は必ず必要である。なぜなら、失敗の教訓があってこそ、新しい事が成功するのだから、つまり、挑戦が成功する為の教科書代として失敗という対価を支払わなければならない。その教科書代をケチるようだと、新しい事は出来ない。
 
つまり、失敗とは新しい事を成功させる為の教科書なのである。だから、失敗には敬意を持たなければいけない。他人の失敗を教科書にする事も一つの手ではあるが、他人の失敗だけでは、充分な教訓(教科書)にならない事も多い為、やはり、失敗に敬意をもって自分でやってみて失敗する事、そして、それに敬意をもって対処する事が必要である。そして、その教訓を元に何をして何をするべきでないか、きちんと考えるべきなのだ。単に教科書を手に入れても、それをきちんと理解して、把握しなければ、教訓を学んだ事にはならない。
 
失敗し → 学び → 把握し → 改善し → 失敗し → 最初に戻る。
 
堂々巡りのようだが、改善する過程で上昇していく、竜巻のようである。成功というトルネードを起こせるかどうかは、このサイクルを継続し、改善し続ける事にある。失敗に敬意を払わないという事は、(新しい事を)学ぶという事に敬意を払わない事と同じ。だから、失敗には敬意を払うべきなのだ。
 
昔、模型飛行機で新しい事をやった時、見事に墜落した時「おお〜っ」という感じで、「これはダメか...」ということは...「次はコレ!」みたいに何度もいじり回して、最終的にはその模型飛行機はボロボロになって壊れてしまったが、だが、模型飛行機で新しい事をやって失敗しているのも楽しかった。なぜ失敗が楽しかったのかというと、新しい事をやったら、どんな風になるか楽しみだったから、失敗にも色々あって、いきなり浮いたかと思うと、即失速して落ちるとか、浮いた途端に風に煽られた時に、いきなり地面に激突するとか、千差万別なので、それを見て面白がっていたというところがある。しかし、これこそが恐らく新しい事をやるのに必要な精神であると思う。誰も見ていない場所では、失敗しても全然、問題じゃなかった。
 
誰かが見ていると、完成していないと問題にされ、それが非難の対象になる。そんな彼らに「失敗は成功の元」と言っても、バカにされるだけだった。王立宇宙軍オネアミスの翼状態である。今にして思えば、彼らの、成功には失敗が必要であるという道理を理解しない意見は、さほど重要ではなかった。誰でも分かる単純な事であり、今更言う事の程の事でもない。最も重要だったのは、それで自分の心が折れてしまう事が最大の問題であったといえる。彼らは結果だけを見て評価し、非難するが、それは木を見て森を見ない行為である。もう少し的確に言えば、彼らは成功という果実しか見ておらず、それを育てた失敗という木を無視している。いって見れば、スーパーのリンゴが成功(結果)だとすると、それを育てた農家が失敗(プロセス)である。失敗というプロセスなしに成功はあり得ない。失敗を避ける事が出来るのも、それが失敗だと知っているからであり、その失敗は誰かが教えてくれたから、そうなるのであって、その教科書を作ってくれた人間に敬意を払わないという事は、自らの成功の土台となった失敗を否定する事に繋がる。成功の足下には失敗の山がある。だから、失敗には敬意を払うべきなのだ。己の足下を固められないものがどうして、そこに立っていられようか。
 
研究開発に成果主義を持ち込むとダメだ。実際、成果主義導入後のSONYは、新しいものが作れなくなった。失敗を認めない風土に新しいものは育たない。企業の内部留保は史上空前の規模だという。つまり、資金的には失敗を許容する冗長性は担保できているわけだ。大事なのは、今、現在にそこにないものを創造するための思想である。その為の思想として、「失敗に敬意を払う」事が重要だと考えた。新しい事は失敗を経なければいけない。それを否定している限り、「何をしていいのかわからない」と言う事になり、成長戦略を描けないのだ。なぜならば、成長とは新しい事をやる事、それは失敗を覚悟で突き進む事、失敗を避ける考え方は、最初から新しい事が何も出来なくなってしまう。つまり、そんな考え方では成長戦略など描けないのだ。だから、まず、失敗に敬意を払う事が大事なのだ。それは誰でも知っている事だ。自転車に乗る為に何度転んだか、誰でも分かっているはず、そういう当たり前の事を皆で尊重し、共有する事が大事なのだ。過度な成果主義は、研究開発ではタブーとするべきだ。あんなものは日本の成長を阻害するもの以外の何ものでもない。
 
SONYの初代社長、井深大氏がSONY成果主義を導入すると言われた時に、「SONYSONYでなくなってしまう」と言ったという。それは、成果主義の導入によってSONYという創造的企業が創造できない企業に変わってしまうという意味だった。今ならば分かる。実際その通りになったSONYを私たちは目の前にしているのだから。成長戦略を描けないのは、失敗に対して、それをリカバリーできる冗長性を担保しなくなった企業の姿勢にある。だから、失敗を悪ではなく、成長の一部として敬意を払い、それを皆で共有する事から始めれば、そこから成長戦略が描けるようになる。新しい事はそこから始まるのだから。新しい事とは、失敗しそうな事の中にある。iPhoneが今、破竹の勢いであるが、それが登場した時、タッチパネルはキーに比べて操作性が悪い、失敗するだろうと言う人が少なからずいた。実際は、その失敗するだろうと予想されたiPhoneは成功した。なぜか?それはiPhoneが新しい価値を人々に提供したからである。キーの重要性を主張していた人は既存の価値のものさししか持っていなかったし、失敗を恐れている人達だった。だから、タッチパネルによる新しい価値を過少評価し、iPhoneの様な新しいものを正当に評価できなかった。成長するとは、そういう新しいものを正当に評価する姿勢を持つ事なのである。そして、Appleが成長する為にしている事は、失敗する可能性を認めた上で、それを極限まで洗練させる事に余念がない事だ。これは日本のお家芸なので、日本企業には出来る。今の日本企業にないのは、失敗を過度に恐れるあまり、新しい事が出来なくなっている事。恐れるのではなく、敬意を払い成長の一部として肯定する姿勢を持てば、空前の内部留保を開発資金として使い、新しいプロジェクトを立ち上げ、プロトタイプを製作し、それを極限まで洗練させ、それをグローバル戦略にのせれば、成功する可能性は充分にある。最初から世界で売る事を前提にすれば、ガラパゴスではなく、ユニバーサルになる。
 
成長戦略とは、グローバル戦略であり、同時に失敗に敬意を払う事だ。これが出発点であり、日本企業が「何をしていいか分からない」というのは、それを肯定できないからこそ、その最初の出発点からつまずいているからだ。しかし、そこを抜ければ、新しいものを作る技術力や、それを完成させる洗練力などは、充分にもっている。ないのは、失敗を許容する思想と、それを完成させてグローバルに展開する戦略性だ。そこさえおさえれば、日本は経済成長できる。なぜなら、自転車に乗るのに、才能は必要ない、必要なのは何度転んでも諦めない事。日本人には、何度転んでも耐える忍耐力と、企業には空前の内部留保がある。ないのは、それを支える思想だけなのだ。今の企業は、子供が自転車で1回転んだだけで、やめさせる様な事をしている。そんな事をやっていたら、永久に自転車には乗れない。成長とは、そういう転んでも、その失敗に敬意を払い、そこから多くを学び取る事なのだ。そういう常識を忘れたところに日本の低成長がある。言って見れば、成果主義何ぞと言う非常識を導入した事が、日本の低成長の始まりだったのだ。