SKY NOTE

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PS版ドラクエ4ってロザリー生き返るんだね。知らなかった...

ドラゴンクエスト4  ロザリー <PS版> (再生時間:10:00)

ファミコン版しかやった事がないので、ロザリーが生き返るというのは、ストーリーが根本的に変わってしまうところなのだが、これはこれでいいのかも...と思う。このロザリーが殺されてしまったからこそ、デスピサロが生まれてしまったわけで、その前提が生き返る事で覆されてしまうというのは衝撃だった。
 
ドラクエは6までしかやった事がないのだが、その中でドラクエ4が一番、敵も味方もキャラが立ってて面白かった。ドラクエ4は、最後までドラマがある所が好きだ。特にマーニャやミネアの復讐劇は、ドラマチックで良かった。最後の敵、ピサロも部下の魔物にロザリーを殺されて、それを人間のせいだと騙されてしまい、復讐の鬼となってしまった結果がデスピサロなので、基本的に悪ではない。そういう意味では、このストーリーもありなのだ。ロザリーが生き返るシーンは「そんなストーリーでいいの!?」と思ってしまうほど驚きだが、この予想を超える展開をやってしまうところにドラクエの面白さがあると見た。
 
ドラクエ4で一番泣けるのは、第五章の勇者の登場シーン、平和な村が突如、魔物に襲われて、自分が村人みんなに守られて地下室に閉じこめられる。友達がモシャスを唱えて、自分の身代わりになって殺されてしまう所。このシーンが結構残酷なのだが、このシーンがあってこそ、悪への憎しみが増すというか、ストーリーが立ってくる。友達がいた場所をしらべてみると、はねぼうしが落ちていて、形見として拾って、それを売らずに預かり所に預けておくというのは、恐らく誰もがそうしたであろう。(あれ売る奴いるのかな〜)
 
悪を表現するからこそ、善が分かるわけで、悪だから、表現してはいけないという表現規制などは、逆に言えば、善を表現しない事になる。相対化ができない状況は危険だし、特定の連中の特定の価値観でストーリーにイチャモンがつけられる世の中にするのは、ハッキリ言って面白いシナリオが作れなくなる感じがして嫌だ。表現規制なんてなくして、残酷でも何でも見て、それで自分がどう考えるかという主体性が結局は正義なんだよね。他人から用意された正義なんて、所詮偽物。オレの正義だって、それは悪を見た結果だもの。悪への憎しみが正義なんだもの。ピサロの様にね。だけど、デスピサロになってしまったピサロを見て結局は、憎しみによる復讐では正義にはならないんだなと諭される。その怒りを復讐ではなく、悲劇をどうやってなくすかという事に振り向けるべきというのが、ロザリーが生き返ったストーリーにあるのかもしれない。
 
左がPS版で右がDS版(PS版は中古で結構安いね)