SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「正しさ」の中にある「恐ろしさ」

義父と話している時、私はその正しさについて疑う必要はなかった。なぜなら、大抵は正しいからである。そんな義父に、自分はどんな人間かと聞いてみた。
 
義父曰く「お前はモノの本質が分かる人間だ」「なぜなら、お前は人が右といえば、左へ行き、舗装された奇麗な道があるのにわざわざ、脇の薮道へ行き、馬に乗る時、背中に乗るものなのに、お前はしっぽに掴まったり、腹に捕まったり首に掴まったりする。そうやって、なぜ、右が正しいのか?なぜ、舗装された道がいいのか?なぜ、馬の背中に乗る事が一番いいのかよく分かっている」「そういう面倒な事をやっているから、最も効率のいい事が、どれだけ価値があるのかよく分かっているはずだ」
 
その会話の中では「ふ〜ん」と答えていたが、それから数年経て大人になってからこう答えた。「オヤジが正しいという事は分かっている」「だが、それがなぜ正しいのか分からない、自分はそれが恐い」そう答えた時、義父はホホウという表情をしながら「お前はそういう考え方なのか」「面倒な事をするものだな」と言った。
 
これは、正しい事が、どれだけ価値があるのか分からない不安、恐ろしさだ。検証されていない正しさは、正しいか間違いというゼロかイチの世界であって、私はそこにイチからヒャクまでの等級をつけたかった。(あるいは、どういう性質の正しさなのか知りたかった)そうする事で正しさの比較検証が可能になるからだ。つまり、正しいか間違いかの白黒だけでなくグレーの部分が欲しかったのである。
 
もう一つの正しさに対する恐怖は、偽善(間違った正義)に対する恐怖だ。祖母は自分が正しいと信じていた。しかし、やっている事は偽善であり、正しくなかった。争いを避ける事のみが正義と考えて、他人の言い分をことごとく退け、まともに取り合わず、結果として、一時的に争いが収まるだけで積み残しの問題が山積する。祖母は、そういう積み残った問題の原因を、家族の浅はかさが問題だと考えていたが、実際は、争いを止めるだけで、まともに問題解決をさせない祖母自身に問題があった。つまり、一見、争いを止める事は、正しそうに見える。しかし、きちんと道理に従って処理をしないと、不満がくすぶって、ゾンビのように同じ問題が何度でも蘇ってくる。そうやって問題が山積する。
 
今時のニュースで言えば、中途半端な対応をした尖閣問題が例になるだろう。ビデオが公開されてから、中国側の挑戦的な対応がパタリと止んだように、要するにケジメをつけないと、何度でも同じ問題がくすぶって復活してくる間違いをおかしていたのだ。そこで、この記事では「正しいこと」を問題を解決できることと定義している。「正しさ」の中にある「恐ろしさ」。つまり、この基準に基づけば、何の問題も解決していない祖母の対応は、間違いと判別できる。祖母の恐ろしいところは、何も問題を解決していないのに、自分が正しいと信じるあまり、それを自分の権力を使って継続していた事にある。つまり、間違っている事を正しいと信じ、継続したのだ。これは最悪のパターンである。病気で言えば、慢性病に近い。永続的に人を苦しめるという点で絶望的である。
 
以上が自分の体験であり、今度はそれを私がどう解釈したか書く
 
義父を見ていて、正しい事は分かっているので、それにそのまま乗っかるのは面白くない。上手く行くのが分かっているから、自分がやりたかったのは自分のやり方を編み出す為に必要な情報が欲しかった。仏の教えの中の守破離の中の破をやっていたと言える。私が恐ろしかったのは、正しさを義父に依存し、自分の考え方が出来なくなる事だった。
 
祖母を見ていて、一見正しそうに見える事でも、実は非常に大きく間違っている事がある事が分かった。そこで、上辺だけでなく、中身として正しい事を判別する為に、見た目ではなく、実質的な問題解決がされたかどうか客観的に評価する事にした。そうすることで、本当の正義とは何か考える事にした。大抵の奇麗事には実質が伴っていない、その実質を評価する事で、真の正義とは何かと評価する事にした。ここで私が恐ろしかったのは、表面的な正義が、あまりにも簡単に人を騙せてしまう事である。祖母自身も、他の家族も、子供の頃の私も、皆、この偽りに騙されていた。この偽りが合意となり、その合意が権力となって、間違った事を永続してしまう恐ろしさ。
 
つまり、「表面的な正しさ」(奇麗事)に対する恐怖がある故に、私は正義を評価する上で「実質的な結果」を重視する事にしている。そこが私が帰結主義である理由である。故に私は、どんなに奇麗な理由があろうとも、私はそこに実利(結果)が伴っていないものには一切耳を傾けない。私は、表面的な美しさが正義を駆逐する現実に嫌悪感を持っている。だから、見た目に必要以上にこだわる人間を私は、半分、詐欺師と捉える。問題は、美しさが正しさと捉えられてしまうところにある。本来、「美しいこと」と「正しいこと」は違う。しかし、人間はそれを混同してしまう。私は、この混同が恐ろしい。その恐怖感があるが故に、美しい理由があっても、私はまず、それを疑い、そこに実質的な意味があるか検証して正しいかどうか判別する。大抵の人はこれをしていないと思う。偽善がはびこるのは、この「美しさ」と「ただしさ」を分離する検証作業を省いている為だ。
 
長々と書いてきたが、ここでまとめに入る事にする。
 
私の正しさに対する恐怖は、二つあった。
1.どのように正しいのか分からない正しさへの恐怖

  • 正しいけれども、なぜ正しいのか具体的に分からない事への恐怖
  • →自分の考え方が出来なくなってしまう恐さ

2.美しい正しさ

  • 美しいのか、正しいのかよく分からない正しさへの恐怖
  • →美しさを正しさと勘違いし、間違った事をしてしまう恐さ(永続してしまう恐さ)

 
それに対し、私はこういう事をした。
1.どのように正しいのか、敢えて間違った事をやってみて検証してみた。(子供の頃)
2.美しいだけでなく、それが実質的に正しいのか検証してみた。(大人になってから)
 
その検証の結果、私は、ある程度は自分の考え方が言えるし、ある程度の偽善にも耐性がある。しかし、そういう自分が正しいと過信してしまうと、己の偽善を正しいと信じた祖母のようになってしまう。だから、正義とは慎重さと謙虚さが求められる。故に私は己を疑う。信じるのは、その帰結と、それを実現するプロセスにあると考えるのだ。
 
逆に言えば、実質的な正しさと見た目の美しさが融合していれば、一番いい。そうすれば、誰もが、それを正しいと信じ、正義が実践できる。しかし、世の中にはびこっている現実は、美しいだけで、実質が伴っていない偽善や、正義ではあるけれども美しさがないために正しく評価されない現実である。
 
海月姫(アニメ:第05話:多分数日でリンク切れ)は、美しさと正義が描かれている。14分28秒あたりから、その話が始まる。己の正しさを通す為に美しさが必要だと力説するあたりは、確かにな...と正直思った。間違った事でも通せてしまう諸刃の剣だけど...