SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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ビジョンなき日本

現在の日本人は、無条件に力を信奉する傾向が強い、例えば、企業で言えば大企業、少数派よりも多数派、広告量が多く露出の多いものを信頼する。この発想が徹底されたのは90年代だった。それまでは、まだ哲学とかスピリットとかそういうものを評価する部分も残っていた。しかし、90年代に入ってから、なし崩し的にそれがなくなった。なぜだかは分からない。ただ言えるのは、人々の言葉の中に節度を設定する言葉が自由と言う言葉によって駆逐された時、その様になったと感じる。
 
自由と言うより自分勝手・ワガママと言うのが正確だった。バブル絶頂期は、それ以前に既に形骸化していた節度が崩壊した瞬間だったのかもしれない。自由と言うのは、実際には節度が伴う。なぜなら、自由には責任が生じるから、その責任に応じた節度もまた必要になってくるのだ。日本人がそれを放棄した時、この国は経済が全く成長できなくなった。なぜならば、ビジョンという理念を尊重するだけの胆力が野放図な自由、無責任な自由によって駆逐されてしまったからである。理念を貫く為には、それを貫く節度が必要なのだ。しかし、自由とは名ばかりの「無責任」によって、ビジョンはゴミクズ同然に扱われるようになった。全く意味のないものだと。
 
しかし、この国が成長できないのは、ビジョンと言う大黒柱を失ったからである。20世紀の日本のビジョナリーは、手塚治虫だった。彼の漫画を読んだ少年少女たちが、彼のビジョンに従って社会を構築した。そこには、未来があったし、夢もあったし、それを実現する向上心もあった。しかし、平成に入って手塚治虫というビジョナリーを失った日本は、未来へのビジョンを失い、夢も失い、向上心も失った。だから、「適当にやっていれば、いいんじゃね」と言う風潮が広まり、結果として、低成長で給料の上がらない社会の出来上がりという事になった。
 
なぜ、ビジョンが必要なのか?それは飛躍の為には、挑戦が必要である。必要は発明の母と言うようにビジョンは飛躍の母なのだ。(イノベーションはビジョンを必要とする)ビジョンを成果がでないとバカにする姿勢は、飛躍の母を大事にしないわけだから、飛躍するわけがない。つまり、成長しないわけだ。今の日本でビジョンを語れる人は孫さんくらいだ。他の人は四半期決算がどうかとか、そういう夢のない事ばかりしか言えない。聞いていて面白くないから、下の人間もやる気がでないわな。そういう「つまらん」経営者の下では、組織のポテンシャルが下がってしまう。
 
当然新しいものができないから、需要が喚起されない、すると、コストダウン競争になって、デフレになり、給料は上がらない、リストラの恐怖など、ジリ貧状態に陥る。こういう時、前の世代の経営者であれば、皆に「新しい事をやらなければ、ジリ貧になるからそういう事はやめろ」と皆に活を入れ、周りもそれに応じて「確かにその通りだ」と考える節度というか共通認識があった。昔の世代は社会を俯瞰してものを言える視野の広さがあった。今は足下の決算や収益の事に目が奪われて、それどころではないと言う感じ。だが、本当は目先の利益こそが「それどころではない」程度のものなのだ。他が同じようにやっている事を自分がいくらやっても、チェーンの外れた自転車をこぐようなもので、全然成果が上がらない。少なくとも飛び抜ける事はできず、全く無意味な努力となる。
 
それを俯瞰し、皆と共有できていたのが強かった日本。しかし、今の日本は、社会全体を俯瞰するよりも目先の決算を満足させる為に、人を切り、給料を下げて人件費を下げて利益を絞り出して株主に還元する。しかし、そういうやり方は社会全体から見ると、消費者の財布を細らせ、結局は自分達の商売に跳ね返ってくる。つまり、負のスパイラルに陥る。社会全体を俯瞰する事で生じる危機感が、目先の決算に駆逐されてしまう為に、負のスパイラルから抜け出せない企業経営者、ビジョンよりも売り上げや利益を追求した末路が、ジリ貧経営なのだ。全く以て卑小な経営と言う他ない。己で己の首を絞め、苦しむ姿は自業自得と言えばそれまでだが、あまりにも悲劇的である。