SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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共感とは心のニーズ

コンセンサスを得る上で難しいのは、現実の優先順位と、心の優先順位が違う事。人間は、大抵、心の優先順位、つまり、共感するものに従う。私のような人間は、そろばんの帳尻が合うと、魅力的に感じるが、共感にはあまり魅力を感じない。「それって食えるの?」というタイプの人間なのである。
 
共感とは不思議なもので、実利が伴わなくても、価値を演出できるところがあって、それが理解できると出来ないのとでは、コンセンサスが得られるかどうか決まるくらい重要なのだ。私が理解できないのは、実利を無視して共感を優先する感覚がどうしても理解できない。だが、人の心がものの価値を決めるのだ。よって、いかに実利的に優れたものでも、結局は共感に負けたりする。
 
では、実利を押しのける共感とは何なのか?それは、心のニーズ、もっと言うと、脳のニーズなのだ。脳は常に新しいものを求めている。だから、新しいものだったり、脳に刺激を送るような信号が発せられると、人は共感し、YESと言う。私がその脳のニーズを無視できるのは、共感の危険性を知っているからにほかならない。共感は一見、仲間を連想させるが、負の側面として、「赤信号、皆で渡れば怖くない」のように、集団が共感し、権力が生じると、傲慢が生まれるのだ。私は共感について最も嫌っているのは、この点。これを忌み嫌っているが故に共感の電波が発せられているSignalを受け取ると、私はシャットダウンしてしまう。そして、合理的に損か得かそろばんをはじき、得な方が正しく、損なことはダメと切って捨てる。
 
だから、私は集団の共感の輪の中でも、いつも冷めている。いわば、私にとって共感とはノイズ、私の合理性は、共感を排除するノイズフィルター、そういうものの見方をすると、世の中がいかに感情的かが分かるのだが、残念な事に、その感情が世の中全体を動かしている事が多分にある。私の現実的視点は、ある意味ニュートラルなラインを示しているのだが、現実は、そのニュートラルなラインを中心として、波打っている。だから、本当に現実を直視するのならば、人の感情の波を、まるでサーフィンをするように読み取って行くセンスが必要なのだ。私はこのセンスがない。あくまでも分かっているのはニュートラルラインだけ。
 
私が見るべきなのは、ニュートラルなラインを意識しつつ、そのラインに対して、世の中の感情がどのように波打っているか理解する事、必ず、その波はニュートラルなラインに戻って行くのだから、その感情の起伏を読み取る事なのだ。人間の頭の中では現実の損得だけでなく、心の損得がある。私は現実の損得勘定は達者だが、心の損得勘定は良く分かっていない。心のニーズを汲み取れない私は、人を説得できない。つまり、コンセンサスが得られない。コンセンサスが得られないと現実が動かせない。
 
私が気にしなければいけないのは、現実のニーズと、心のニーズが必ずしも同じではない事。この異質な二つのニーズをマッチングさせる事が人を説得する事なのだ。私が知っているのは片方だけ。ある意味、別次元の価値観なので、実利に基づいてシンプルにまとまっている私の頭の中よりも遥かに複雑な意識だと感じる。この複雑さが理解できて、ある意味、現実が動かせるようになる。でも、私はこの複雑さが嫌い、シンプルなのがいい。その点、子供は好き、子供は発想はシンプルでいい。あと猫も好き、猫も自分の願望に忠実でシンプル。嫌いなのは複雑な大人。←ダメじゃん
 
心のニーズの正体は自尊心、私の子供の頃なんて、自尊心を持つのは難しかった。持とうとしたら、悪い事をしているとたしなめられる家だった。故に自尊心を持つ事が子供の頃の私には危険だった。自己主張=怒られる事、悪い事になってしまう家に育ったので、人が自尊心を持っていると言う事を私は贅沢だと思ってしまう。
 
つまり、自分の自尊心を認められた事が無かったので、他人の自尊心を認める事にも無頓着である。子供の自尊心は認めるのは、子供の心がもろく傷つきやすいから、だから、弱いものを守る形で尊重する。でも強い大人には遠慮しない。しかし、これがいけない。大人であっても心がもろいのだ。故に私が正しいと思った事を言っても、大抵の場合、他人に否決される。それは、私が他人の心のニーズを無視したからである。相手は私が正しいと理解しているが、私に自尊心を傷つけられたので、とにかく私を否定したいのである。その結果、彼らは、意味不明なよく理由にならない理由で否定する。これがお決まりのパターン。理由になっていないと追求すると、今度は更に良く分からない理屈が飛び出してくるので、余計にダメなのである。
 
大人の心も、子供の心も同様にもろいのである。子供は可愛いからいいけど、大人は可愛くないから労ろうと思う気になれないのが問題。大人は子供と違って、ずるい事やせこい事や面倒な事をオンパレードでやってくるので、どうしても好きになれない。
 
それもこれも、私が追いつめるからなのだと思うのだが、それでも、どうしても納得が行かない。だから、私には友達が出来ない。多分、そこに納得が出来た時、私は人間として大人になるのだろう。私が追いつめた知人いわく、「君の意見には妥協がない」私に言わせると、「君のずるさには納得が行かない」というのが、その知人に対する私の意見だ。
 
相手がずるくても、せこくても、とにかく、それを飲みこんで汲み取ってあげる度量の広さが持てると、人を説得できるようになるのだろうが、私は、どうもその域に達していないようだ。
 
私の発想は、基本的に答えを導く事に特化されている。コンセンサスを得るようには出来ていない。答えが出来上がった後、次にそれを実行に移す時には、答えを出す時の発想とは別次元のコンセンサスを形成する発想に切り替えなければいけない。答えを出す発想でコンセンサスを得られない。コンセンサスは合理ではなく、心情だから。それに合った展開をしないと、ダメ。答えを得る為には、心情より合理が優先されるが、コンセンサスはその逆だから、うまくいかないのだ。