SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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価値あるものを認める大切さ

私の義父は、天才ではあったけど社交性がなく大成しなかった。一見、傲慢に見えるのだが実際は、事実を述べているだけなのだ。ただ、その事実の解釈が自分の天才的な能力を使ったものなので他の人には分からないと言うだけで、義父の正しさは大抵、その後になってわかる。義父の悪いところは、そうやって間違ってしまったその他大勢に「やっぱオレが正しかった」と威張ってしまう事だった。義父は確かに正しかった。でも、相手の自尊心を不用意に傷つける事は得策ではなかった。
 
天才的な数学者が、ある難問を解いて1億円近い賞金を授与されると言う事になったのだが、その数学者は、それを受け取らず「自分の正しさが証明されたらそれでいい」と答えたのだそうだ。要するに天才と言うのは己が所有している答えを、他人と共有できない孤独な存在なのだと思った。だから、その孤独がなくなっただけで1億円はいらないと言ってしまうところが、凡人とはかなりズレているが、それだけ孤独なのかもしれないし、また、自分を理解しない他者に対する猜疑心がとても強いのかもしれない。
 
そういう天才のような有能な人材を凡人が活用できないか、迫害している様を見て思うのは、とてももったいないと言う事だ。多少傲慢でも、多少偏屈でも、能力があれば、それを受け入れるような寛大さと理解があれば、このような天才達をもっと活用して社会はもっと前進するだろうに...とも思う。世の中に必要なのは有能な人材以上に、誰が有能か公平に評価する評価者が必要だ。それがなければ、能力を活用できない。その為には、傲慢に見えるが、実際は事実を言っているに過ぎないような人間を和を乱すとして迫害するのではなく、ああいう奴なんだと受け入れてやるような度量を持つべきなのだ。
  
「玉も磨かずば光るまいに」という諺がある。これは中国の話で素晴らしい玉の入った原石を見せたが、大抵のものはタダの石ころだと言ってバカにし、なかなかその石の価値を理解するものがいなかったと言う。あるとき、あまりにも熱心に言うので、では、その玉磨いてみようと言う事になり、磨いてみると、中から、とても素晴らしい玉が出てきて、とても驚いたのだと言う。どんなに素晴らしいものがあっても、その価値を理解するものがいなければ、ただの石ころと同じ、「玉も磨かがずば光るまいに」は日本では努力の美徳を説く逸話のように解釈されているが、この話からは、そのような解釈ではなく、価値あるものを理解する事がいかに大切かを述べている。
 
翻って、日本で環境関連で報道されている内容を見ると、非常に保守的な内容で辟易とする。
BNFなどは、あまり報道されない。BNFはバイオナノファイバーの略で、植物の繊維を活用した強化プラスチックの技術である。植物版のCFRPと言っても良い。最近までバイオエタノールが報道されていたが、本当に報道するべきなのは、藻から作るバイオディーゼルだ。それから電気自動車でも、単なるバッテリーカーを報道するよりも、航続距離が長いインホイールモーターを搭載したシリーズハイブリッド車にフォーカスするべきなのだ。実用化前の先進的な事例を報道する事によって、そういった研究にスポットを当てて、予算を多く割り当てる事で、日本が一歩も二歩も先に行けるのである。既に実用化段階のものばかりを報道しても、それは前に進む事にはならない。いち早く、次の芽になりそうなものを見つけ、そこにスポットを当てて、玉を磨くように価値を見いだす事が大切なのである。
 
日本でダメなのは、価値を理解する時に実物が必要な点。可能性の評価に自信がなく、実物のみによって評価する。この評価の仕方の問題点は、そのようなやり方だと、理解できるものの守備範囲がとても狭まってしまう事。よって、新しい事を報道しないので、そういうものに予算が割り当てられない、よって日本は先進的な研究はされていても、そこに予算が投じられず、結果的に外国に追い抜かれる。外国は実物がなくても可能性があれば、きちんと評価する度量がある。日本人のように保守的ではない。ここにも減点主義の弊害がある。海外で、そういうものが評価できるのは、成功すれば一獲千金と言う加点主義的思想があるからである。
 
しかし、減点主義の日本では、目に見える実物ができるまでずっと評価しない。誰もがその価値を理解できるようになってやっと評価する。それでは遅すぎるのだ。日本のマスコミは素晴らしい玉の入った石を、タダの石ころだと言ってバカにした連中と同じなのだ。
 
キャッチアップする時、努力は唯一の美徳だった。だがイノベーションが必要な時、努力だけでなく、天才を評価したり、未完成だが新しい可能性のあるものを評価する事が求められている。日本には優れた人材や研究があるのだから、それをもっと評価するべきなのだが、そういう事をキャッチアップ的な美徳で解釈し、除外してしまうのが今の日本のダメなところ。
 
エジソン自身がこう述懐している。「天才は1%のひらめきと99%の汗」と雑誌社に書かれたが本当は「1%のインスピレーションがなければ99%の努力が無駄になる」と言ったのに、まるで努力を称賛するような言葉になってしまったと言っている。つまり、重要なのは価値あるインスピレーションの方で、それがなければ、努力をいくらやっても無駄と言う話だったのだ。つまり、大事なのは努力よりも優れた視点を持つ事だとエジソンは言っているのだ。
 
外国のいいアイディアをキャッチアップして優れた製品を作って売り続けてきた成功体験が、今の日本の成長を邪魔している。もう20年も前からキャッチアップだけではやっていけなくなっているのにも関わらず、相変わらずキャッチアップ的な発想で物事を捉えている。キャッチアップが上手くいくのは、輸出国に対して自国民が低所得な時だけなのだ。充分すぎるほど高所得になった今の日本ではキャッチアップではなく、イノベーションが必要なのだ。キャッチアップだけならば中国やインドの方が安くていいものが作れる。
 
新しいものを作らなければいけないのに、日本は成果主義のような一億総保守化を促すような制度を輸入してしまった。つまり、本来やらなければいけない事と逆の事をしてしまったがゆえに日本の成長は止まってしまった。他の国と日本の成果主義の違いは、日本人がキャッチアップする為に用いた減点主義的な思想に成果主義が結びついてしまった事で極端な保守主義になってしまうという事だ。保守的になった日本は、新しい価値を評価できず、経済の低迷が続いている。価値あるものをきちんと評価する為には、目先のものにこだわるキャッチアップ的成功体験から抜け出し、全く新しいものに加点的に評価を下して行く必要があるのだ。
 
日本が輸入するべきなのは、成果主義ではなく、加点主義である。コーチングの思想こそ、今の日本に必要な考え方である。