SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私の不安

自分は心を不安に乗っ取られてしまう事がある。だが、そういう時と言うのは、大抵判断を誤っている。経験則的には問題であると分かっているのに、不安に支配されてしまう。そこで、そういう不安について考えてみた。
 
1.サルの時代の不安

  • 人間が不安を必要とするのは、危機対応能力を高める為である。危険な状況の時に意識を危機に対して向けていないと、危機に対して即応できないからである。特に人類の祖先であるサルは、他の動物に対して決して強い方ではなかった。だから、木に登り、強いヒョウなどの動物から逃れた。そうやって木に登っていたからこそ、手が発達した。

 
2.現代の私の不安

  • 現代においては、私と言う人類には捕って食うようなヒョウはおらず、恐らく人類は、その科学力によって地球最強の生物になった。よって物理的な外敵は存在しないが、精神的な敵は存在する。それはどんな不安なのだろうかと言うと、ひとことで言うと「無理解」である。情報の伝達に問題がある。私は大体、口で言うよりも文書に書くとOKをもらえるので、なるべく文章で問題を解決しようとしているが、それでも不安は残る。

 
3.不安のイメージ1

  • そういう不安のイメージは、煙である。その煙を何度も剣で切るのだが、煙だから全く意味がない。もう一つのイメージは人魚姫に出てくる。美しい声を魔女に上げて足を手に入れた人魚姫の苦悩、時たま夢の中に出てきてうなされる事がある。私は言葉のリアルタイム性と、相手の言っている事が意味が分からない事がある。それは、私の常識と相手の常識が違うからだと思うが、その違いのギャップが大きすぎて、それを解消する術が思いつかない。

 
4.不安のイメージ2

  • 「何を言っても無駄だ」という極端な絶望感があるのだが、これは、家族に問題があったと思う。底なしの不安の原因は、同じように底なしの不安によって意識が狂っていた家族がいたからだと思う。恐怖に支配された祖母は、わたしの言うことを完全にシャットアウトした。他人に従属していないと不安な人だった。多分、従属していないと罰せられた経験が不安にさせるのだろう。では、私の不安は何なのだろう。何を言っても、どんな理屈も全く通じない相手と一緒にいた事が問題なのかもしれない。つまり、恐怖に支配された祖母が、わたしが自由主義的で、権利を主張するような事を言うと、完全にシャットアウトしてしまう。そうすると、いかなる論理も全く通じないシャコ貝のようになってしまう。この強力な拒絶に子供の頃から接していると、他者との問題に対して強い不安を感じるようになっても不思議ではない。
  • それは、他人と言うよりも祖母のイメージがわたしの心の中に巣くっているのかもしれない。他人とぶつかるたびに、完全にシャットアウトされた時の記憶、どんな理屈も全く通じない、全く理不尽な結論。祖母の精神状態は、従属していないと不安な性格、だから、私のように現代人で、公平に物事を決め、上のものだろうと何だろうとダメな事はダメと言う平等な考え方を祖母は恐れたのだと思う。従属する事によって争いを避け、平穏を保ってきた祖母にとって、私のように権威に逆らい従属しないものは、秩序を乱す正しくないもの映ったに違いない。私がそれに反論すると「世の中はそういうものだ」という言葉がついてきたけど、「それは明治時代の世の中であって、昭和の世の中の事ではない」とハッキリ言ってやれば良かったと思う。

 
5.私の不安のルーツから見る対処法

  • 私は他人と対立するのに強力な敵が沢山いた。わたしが優しかったからだろうか?と思ってみたが、わたしは優しいのではなく、妥協を繰り返してただけ。多分、わたしは弱かったのだというのが正確だろう。妥協を繰り返したのは、妥協しないで頑張っても、祖母のような恐怖に支配された人間はより恐れるばかりで理性で物事に対処しようとしない。よって、問題がさらに悪化し、より大きくなる事を意味していた。
  • つまり、わたしがいた家と言うのは、子供にとって非常にストレスフルな家だったのだ。些細な事であっても、それが他者と対立すれば、公平に決めるのではなく、私のような目下ものが目上の者に従属する事で片づける。そういう家だった。それに逆らえば、家中で大騒動になる。これが一番嫌だった。些細な事が大事になる。なぜ、些細な事が些細な事で片づけられないのか?それは祖母の秩序の形成方法に問題があった。理由ではなく権威で物事を決めてしまっていたから、権威の序列を乱す行為は、秩序の根幹を揺るがす行為であり、大事になってしまうのだ。そして、その権威の源は単なる一人の老人のトラウマ(恐怖)に過ぎないのだ。
  • 私がガリレオに共感するのは「地球は回っている」と地動説を唱えた事だ。それは、当時のキリスト教社会の根幹を揺るがす主張だった。「地球が回っていようがいまいが、神様がいるものだと思っていれば別に問題ないじゃん」と言うようなものではなく、聖書に書かれた事、当時の最高権威と意見が違っている事が問題視されたのだ。そして、それは神の存在を否定するものとして断罪された。祖母の考え方と対立しただけで、家中の非難をあびる私と同じであった。歴史を描いた漫画で、よくその部分を読みながら感動したものだ。科学が好きなのは、最後に正しいものが勝つって所だ。権威が真実の前に屈する姿が痛快だった。最近の都議会の「青少年育成」なんたらという奴は、まさに異端審問の現代版だ。自分達と意見の違うだけで、誰の迷惑にもなっていないもの(統計的に証明されている。クリックするとグラフがでます)を罪にして粛正しようとしている。私が最も嫌う時代遅れな考え方だ。そういう権威が何を生み出すのか?魔女狩りである。その結果、科学の進歩が1000年遅れたと言われている。それは自分たちと考え方の違うものを滅ぼしていこうとする発想が、社会の自由をなくし、進歩を著しく阻害したからである。正に社会全体でバカになってしまったという事なのだ。頭が恐怖で支配されているから、理性で動けないのである。そして、彼らの主張の仕方は、常に恐怖に基づいている。私たちに逆らったら良くない事が起こると他人を脅迫して、物事を通そうとしている。だが、彼らは単なる恐怖に支配された臆病者の中の臆病者に過ぎず、臆病すぎて頭がバカになってしまった種族に過ぎない。そういう底なしのばかに付き合っていたから、私は、そのバカに対する恐怖から不安がぬぐえないのだ。

 
6.バカ(権威主義者:理屈が通じないから)と他人を混同している自分

  • 底なしのバカにつきあい理性が全く機能しない社会で生きてきた人間にとって、大事な事は、現実とバカとは違うと認識する事なのだ。バカと現実は違う。これが私に必要な考え方だ。子供時代に、あまりにもバカに接する時間が長すぎたせいで感覚が自分は狂っているのだと自覚する必要がある。フラッシュバックのように不安が生じるのも、それは、現実ではなく、過去のそういう恐怖体験が元になっているに過ぎない。そう考える事が私の不安を治す手段のように思える。
  • 「現実とバカは違う…現実とバカは違う…現実とバカは違う...」そう呪文のように唱えて頑張ろう。現実とバカは違うのは、現実には法律やルールがあるという事だ。それは権威者が全てを支配できていないと言う事、それ自体が現実とバカが違う証拠なのだ。私が、子供の頃、現実とバカを混同したのは、家と言うローカルな世界において、祖母と言う権威者の支配力が絶大で祖母が法律だったからにほかならない。そして、子供は家から出る力がない。よって、子供にとっては家は世界そのものなのだ。私の不安のルーツは、その世界が「底なしの大バカ」だったと言うだけの事なのだ。祖母が支配していた世界で通じた常識は、現実の社会では通用しない。その事実が分かっているだけでも、私は現実とバカ(権威主義)を区別するべきなのだ。バカな人間は確かにいる。未だに時代遅れな発想で情報を統制しようとし、統計による客観的な現実に目を背ける異端審問官レベルの権威主義者が議会の中にいるようだが、同時にそれに賛成するようなメディアは殆どいないことが救いだ。どうやら議会と言う狭い世界では通じても、現実と言う広い世界では、ちゃんとした感覚の人が多いと言う現実に私は目を向けるべきなのだ。
  • 都議会で、この異端審問レベルの条例を出した石原慎太郎というバカがいるようだが、まさに彼は私を苦しめた祖母と同類の権威主義者だ。科学的根拠もなく、ただ自分が正しいと思っている事を吐き出しているだけに過ぎない。統計が彼の言っている事の逆を示しているのに、それを認めない理不尽さは、まさにわたしの過去を彷彿とさせる。彼のような人間にはどんな理屈も通じない。また、報道も犯罪統計を公開しないのもダメだ。このような条例を増やせば増やすほど犯罪が増えると言う現実を報道しないのは社会正義に反する事だ。奇麗事に逆らい現実の正義を追求しないというのは、大人として情けない事だ。青少年育成条例の改正案のような条例を増やす事で犯罪が増える事は、児童ポルノ法で分かっているのに、それをまたやろうとして、被害者を増やしてしまう。理性で動けない彼らには正義を行う勇気はない。ただ、建前を掲げて、自分は聖人であるとポーズを取りたいだけなのだ。そういう人間ほど奇麗事で自分を飾り立てる事が多く、それによって権力を獲得している。そして、その権力を己のチキンな発想の為に使う為に、理性で動けない。よって、現実とはアベコベの事をしてしまう。それがどれほど他人を傷つけるのか全然考えていない事が問題なのだ。あくまでも自分を守る事しか考えていないから、他人の事なんて考えない。それが彼らの正体なのだ。そして、その己を守る為に権力が必要で、そして、その権力の為に建前(奇麗事)を欲する。それを真実で暴こうとする人間に対して、自分を守る権力の根幹を覆されると恐れるから、最大限の力を行使して弾圧しようとする。それが石原慎太郎のような権威主義者の発想なのだ。今回の都の条例には正にそうだ。被害者を増やす条例には議会は理性をもって対応するべきである。理性の無い都知事に対し、理性をもって否決する勇気を持って欲しい。この条例は奇麗事でしかないとハッキリ言ってやるべきなのだ。

 

  • 私の不安は、ああいうバカな人間が権力を持っている事、それ自体なのだ。世の中がそういう権威主義的なところがあるからこそ、彼が選挙で選ばれたかと思うと、ぞっとするのだ。だが、わたしの子供の頃のように黙らされる事はない。自由に意見が言えるというのは素晴らしい。意見を言ったからと言って大罪人にされる事もないしね。でも、今回の条例案のようなもの可決されて広がってしまえば、現実の罪ではなく概念的な理由で人が裁ける前例を作る事になり、その結果、自由に意見が言えなくなる可能性もある。もしかしたら、わたしの子供時代に社会全体がなってしまう危惧を私は持っている。その危惧と言うのは、私が権威主義者の目的を理解しているから。
  • 彼らの目的は「自分を守る事」それのみ。故に、自分と意見が違うものに対して排除しようとする。その内、自分のやり方や、方針に逆らうものを弾圧したくなるに違いない。そして、概念的に人が裁けるのならば、その概念の幅を広げたくなる誘惑に狩られるのは、容易に想像がつく。そうなれば、私たちは新しい形の治安維持法に出くわす事になるのかもしれない。私の不安は、この条例が言いたい事が言えなくなる社会の扉を開いてしまうかもしれない事だ。その可能性は、石原慎太郎のようなバカ(権威主義者)が権力の座にいる事でゼロとは言えない事が私の不安なのだ。