SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

龍馬伝を見た

龍馬伝を見て思ったのは、上士と下士の絶対的な立場の違いだ。これを見ていて義理の祖母を思い出した。私が自分の意見を言って対立すると一方的に私に頭を下げさせる。その際の対応は、上士と下士のような絶対的な立場の違いを意識した行動だったように思えた。龍馬達が、そういう差別をなくしたのに、明治生まれの彼女の頭の中では、それがまだ生き残っていた。
 
上士と下士の関係は、無礼とされれば、上士が下士の命を奪ってもお咎めなしという絶対的なものだったから、龍馬が一方的に謝るのも分かる。だが、龍馬達が変えた社会、つまり、現代の日本では、自分の意見が言えて、命も奪われる事はないのだから、一方的に謝る必要もなく、お互いの意見の妥当性を吟味するのが大事なのであって、一方的に他者に譲歩させる事が重要なのではない。むしろ、そのような事をすれば、上士のような傲慢な人間を生み出してしまう。実際、わたしの義理の兄達は私に対して不当な事をしているのに自分が正しいと信じて疑わなかった。それは義理の祖母が彼らの傲慢さを一方的に養護したためである。
 
上士の傲慢さを見ていて、私が義理の祖母を思い出したのは、上士のような傲慢な存在を生み出すのは、その傲慢さを丸飲みして、従わせる存在がいるからである。つまり、従属する者あっての支配者というわけだ。私はほんの僅かな権利を主張するのにも必死だったが、彼女はそんなことは無視した。彼女にとってはそれが常識なのである。だが、それは江戸時代の常識であって、現代の日本の常識ではなかった。龍馬達が、そういうものをなくしたのに、人の頭の中ではまだそういう意識が残っている。だから龍馬伝のこの言葉にも私は耳を惹かれた「上士と下士何ぞがあるのには土佐ぐらいじゃ」という言葉、つまり、周りはみんな昭和の常識なのに、わたしの家だけ江戸や明治時代の常識がまかり通っていたのだ。
 
人はみんなと同じならば、何とか耐えられるが、皆と違う扱いには耐えられない。私も同じだったので、あの家にはもう、14年も帰っていない。電話も一本もなし、私があの家から出て思ったのは、世の中というのは平等であるという事だった。意見を言えば、普通の対応が返ってくる。つまり、明治から平成にタイムスリップをしたようだった。最近になって、普通の家族の会話を見て驚いたのは、子供の意見を大人が認めて、話が進むという事である。当たり前の事かもしれないが、私にはショックだった。論理的には当たり前と思っていても感覚的にショックだったのだ。
 
当たり前の事が驚きなのである。だから、岩崎弥太郎の気持ちも分かる。彼の絶望も少しは分かるのだ。果てしのない差別、絶対的な立場の違い、一方的な譲歩を強いられ、それに怒る気持ちなど、共感するところは多かった。そして、龍馬の気持ちにも共感するべきものがあった。上士に逆らう弥太郎が切り捨てられそうな時、必死になって止めようとするのは、そこに命がかかっているからであって、安易な一方的な譲歩ではない。命のためにやっている。義理の祖母の問題は、命もかかっていない事に対して一方的な譲歩をしている点である。もっと言えば、譲歩するべき理由は何一つない、ただ私が上のものに逆らったというだけで私は譲歩を強いられた。つまり、龍馬は命のために弥太郎を止めたが、祖母は上の者の立場のために私を止めた。これは同じ譲歩でも、全然違う内容だ。一方は命という大切なものを守るために必死になって止めた、もう一方は相手の不当な権力を養護するために止めた。その結果が何を生み出したか?
 
かかっているものの違いによる譲歩の意味の違い
・龍馬は弥太郎の命を救った。(命-尊厳=命を救う)
・祖母はわたしの尊厳を奪った。(0-尊厳=マイナス尊厳:尊厳を奪う)
 
命を救うものと、尊厳を奪うもの。同じ行為でも全く違う結果となる。それは、祖母が権力に対して従順な古い己の発想に対して何ら疑いを持たず、明治時代の頭のまま生きてきたからである。つまり、いくら世の中が自由になっても、人間自体が、不当な事や不正な事に疑いを持たなければ、間違った事は繰り返されるのである。だから、私は物事に常に疑いの目を向ける姿勢を持っている。なぜなら、そういう目線がないと、自分が祖母のような頭の硬い人間になってしまうという恐れからそうしているのだ。皆さんも、そういう頭の硬い人間にならず、常に常識を疑う姿勢を持っていただきたい。それが世の中を真の意味で進歩させるのだから。
 
龍馬達の生きていた時代は、身分制度が人を苦しめていたが、私を苦しめたのは、祖母の古い価値観だった。古い制度は死んでも、価値観は人の頭の中で生き続ける。故に日本は民主主義国になっても、まだ、江戸時代の封建的な価値観が残っていてもおかしくないのだ。そういう目線で物事を見れば、世界が変わって見えると思う。