SKY NOTE

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計算資源としてスーパーコンピューター

スーパーコンピューターの議論で忘れ去れている事は、計算資源として役割である。その点で比較すると、長崎大学GPUを並列でつなげたものの方が京速と比較して、50倍もの計算資源となる。そのスピードでどれだけの研究者がNO.1になれるかを考えたとき、京速を選ぶ事は、世界の競争から立ち後れる事を意味する。
 
同じコストでの計算資源の規模(1100億円)
京速 : 10ペタフロップス
・長崎大:500ペタフロップス

計算資源の規模にこれだけの差が生じると、京速を選ぶ事は世界No.1になるどころか、二番三番すら狙えない事がわかる。なぜなら、世界の趨勢は、長崎大のようにGPUを並列につなげる方式なのだから、この豊富な計算資源を使って世界の科学者は研究しているのに計算する事になるのに対し、日本は京速の乏しい計算資源を確保する為に予算の大半を使ってしまって、多くの科学者達が、その恩恵に浴する事が出来なくなるのは、あまりにもバカバカしい事だ。同じ予算ならば、仮に京速で10人の研究者が10ペタフロップスの恩恵に浴する事が出来たとき、長崎大のシステムでは500人の研究者が10ペタフロップスの恩恵に浴する事が出来る。10人よりも500人の方の研究者に利用される方がより多くの研究に役立ち、日本を世界No.1に近づける事が出来るだろう。逆に京速を使った場合、利用順番待ちで研究のスピードが遅くなる事も考えられる。
 
表面的な速度に目が奪われて、計算資源としてのスーパーコンピューターの意味をきちんと報道出来ない日本のマスコミのレベルの低さには呆れてものがいえない。