SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私の正義

私の正義と言うのは、悪に対する怨念である。だから、正確に言うと、本物の正義とは違うと思う。もし、私が本物の正義と言うものを理解する事が出来たら、物語を書いてみたいと思う。そのストーリーは、悪に対する怨念で生きる者と本物の正義の対立を表現するものになるだろう。ジャンバルジャンレ・ミゼラブル)でいったら、私はジャベール警部と言ったところだろうか
 
私の正義は怨念であるため、その行為の原点は怒りが動機である。静かなる怒りと言ったところだろう。そういう意味では私は常に怒っている。(恐れている)そういう感覚で見ると、自分はスターウォーズのアナキン・スカウォーカー(ダースベーダー)に似ている。つまり、私のような人間は、ダークサイドに落ちやすいのだ。
 
しかし、同時に歴史の中で、悪を憎むあまり、苛烈な暴力に走り、結局、自らが悪に成り果ててしまう人間も見ている為、怒りを持つが、その怒りに制限が加わる。それは、自分を相対化する事で生じるのだ。ミイラ取りがミイラにならないように慎重になる最低限の教養も持っている為、ダークサイドに落ちないですんでいる。
 
己の心に鏡があり、その鏡を見ると怒りに支配されて暴れる怪物(悪魔)のような自分がいる。私はそれを見る度に、それを恐れ、避けようとする。それは自分がなってはいけない存在なのだ。誰の心にもジキルとハイドがいる。私は自分の心の中の二面性を客観的に見られる事により、自らの精神の均衡を保っている。
 
悪を憎むあまり、自分が悪になる事を恐れる。だから、自らを絶対視はしない。歴史の中で己の正義を絶対視したものの中には、非常に恐ろしい悪になったものがいる。悪に対する私の怨念や恐怖が、自分がそういう悪になる事を許さない。私の怨念には、ダークな方向の怨念と、それに支配されてしまうと自分が本当に嫌な人間になってしまうという怨念の二種類があり、それらが互いに牽制しあう事で、一方に偏らないでいられる。この均衡状態こそが平常の私である。
 
だから、暴走する犯罪者を見ると、「ダークサイドに落ちたか...」と思う。それは自らを相対化し、客観視出来ない事によるものだと感じる。最近の無差別殺害などは、その典型例で、価値観の相対化の出来ない人間が、そのマイナス局面の危険性に気付く事なく、暴走した成れの果てだと思う。
 
私が、そういう教養をもつに至ったのは、ピンとキリを両方見ていたからだ。つまり、最も良いものと、最もヘボいものを両方見ていたから。それは歴史であったり、家族であったりした。独善的な家族に苦しめられ、しかし、同時にそうでない人間の存在に感動したり、歴史の中で独裁者に苦しめられる民衆や、その窮地から人を救おうとする英雄(ガンジー)を見て感動したり、負の経験が、正の経験の価値を理解するのに役立つ。だからこそ、私は悪平等を嫌う。
 
悪平等は、悪の生みの親になりやすい。物事を相対化する事を阻害し、人間をダークサイドに落とす役割を果たす。悪平等は悪の母なのだ。だから、悪平等に対する私の目線はまがまがしい悪、悪を生み出す悪という目線で見ている。そして、その目は怨念の炎に燃えているのだ。そういうものを見る私の目は呪いである。心がそういうものを呪っている。そういう意味で私は既に悪魔なのかもしれないと感じる。
 
手塚治虫のネオファウストに出てくるメフィストフェレスに共感するのは、私のそういう悪魔の部分が、無意識のうちに共感しているのかもしれない。
 
私は善悪を認識しないでいようとする無関心には、非常に大きな危機感を感じる。なぜならば、それは悪平等だからである。全体を平均化して何もなかったように解釈するのは、人の苦しみに対する無関心、問題認識のなさを生み、それが結果としては、悪に繋がる。たとえて言うのならば、痛みを感じない体と言えよう。体が自分を守れるのは、痛みがあるからである。痛みが危機を知らせ、守る為の行動に促す。これを他者への感性へと当てはめれば、人の苦しみに対する痛みのなさにつながり、際限なく他人を苦しめる事が可能となるのだ。痛みを理解しないものは何も守れない。痛みがあるからこそ守れるのだ。しかし、痛みが強すぎると、今度は、その痛みで自分が滅んでしまう。
 
痛みの中に正義がある。だが、その痛みが怒りとなり、他者への無神経となり果ててしまうと、その者は悪になる。だれにでも、それはあり得る事であり、自分はそうならないと断言する事は出来ない。歴史で言えばフランス革命以後のロベスピエールの血の粛清を見ると権力を握ると自分もやってしまいそうだと感じる。だが、結局は自ら断頭台の露と消える。因果応報である。
 
正義とは、人の幸せを素直に願う事。故に独善ではダメだ。だが、私は私を苦しめた人間にある程度苦しんで欲しいと思っている。その苦しみの末に他人の痛みを理解出来るようであれば、私はその者たちを許そうと思う。だが、大抵の場合、相手に苦しみを与えれば恨まれ、その恨みの衝突が不幸を生む。故にわたしは苦しませても、建設的な結果になるとは限らないと思う。そういう意味で私はテロリストと考え方が違うのだ。