SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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猜疑心の正体

よく他人の意見に懐疑的になる人がいる。しかし、そういう人は、大抵センスのない人に多い。つまり、どういうことかと言うと、彼らの懐疑心は実は自分自身に向けられているからだ。実際は懐疑心ではなく、ねたみそねむ猜疑心、下衆の勘ぐりに過ぎないのだが...
 
物事を見るとき、感性の鋭い人は、正しいものを見つけるのが巧い。よって、そんな彼らから見て、疑うべきものと信じるべきものがハッキリと分かる。それはセンスがいいから選り分けが出来るのだ。しかし、センスのない人は、何が正しいのかよく分からない。だから見るもの全てが疑いの対象になる。それが他者に対する不信となって現れるが、実際は、自分が何を信じるべきかはっきりしていない事から来るものである。センスのない人の疑い方は、他者に対する際限のない疑いとなって現れる。だから、他人がどうこう出来るものではない。それは、他人の問題ではなく彼ら自身の問題なのだから。何を信じるべきか分かっていない人間に、何を見せても疑うだけである。
 
また、疑う事が賢いと勘違いしている人も、この類いの人に多いが、信じるべきものを信じられないのはバカである。本当に賢い人と言うのは、何がどの程度信じるべきか分かっている人だ。全く信じられない人もいるだろうし、ある程度信じられる人もいるだろう。それらをうまく活用できる人を賢いと言う。何もかも信じない人は、そのどれも活用出来ない。だから賢いとは言えない。また、常識を疑う懐疑心と言うのは、センスがいいから常識と現実に起こっている事を比較して矛盾を感じ取る事が出来るのである。そういう人の懐疑心は賢明な懐疑心である。それは現実を直視した結果であり、下衆の勘ぐりとは次元の違うものである。
 
下衆の勘ぐりレベルの懐疑心は、大抵は自分のセンスのなさに対する不信から来ているのだ。どこに何の価値があるのか見定められない人間には、何もかもが疑いの対象になるだろう。そして、信じる価値のあるものですら疑い出し、結果としてチャンスを逃す。逆に信じるべきものが分かっている人にとって、信じる事は価値のあるものを得る為の手段となるのだ。そういう人は、チャンスを掴んでいく。何もかも疑って、チャンスを掴めない下衆の勘ぐりレベルの人は、結果として、損をしてばかりだから信じるのがアホらしくなる。本当は信じるべき価値のあるものを疑って切り捨てた結果、チャンスを失っているのに、それを他人のせいにしている間は、その人はチャンスを掴めないであろう。問題は価値のあるものを見定められない自分にあるのだ。そこに気付かないといけない。
 
日本のマスコミはこのセンスのない人間の典型例で、価値のあるものも疑ってかかる為に、日本のチャンスをことごとく潰してしまっている。そういうマスコミにわたしは思う。「センスないのぉ」そして、「自分のセンスのなさで自分が苦しむのはいいけど、他人も巻き添えにするな」と言いたい。才能なし、センスなし、能力なし、これが日本のマスコミ。だから、日本のチャンスを疑ってダメにする。失われた10年が終わった後、日本は環境分野で儲けられるチャンスがあるのに、今だに、役人が既得権益(電力会社などの天下り先)の為に歪曲した統計を鵜呑みにして、環境技術がGDPを押し下げるなんて記事を書いているようでは、ハッキリ言ってダメだ。チャンスを台無しにしている。(大体、日本の役人が作る予測統計なんぞ外れてばかりではないか)世界中で環境技術に対する需要が高まっている事をチャンスとどうして捉えられないのか?それは、要するに環境技術が信頼にたらないのではなく、それを伝える記者たち自身の洞察力が信頼に足らないのである。それが現実だ。(実際、世界中が動いているのに、日本のマスコミだけが旧態依然とした記事を今だに書き続けている)日本のチャンスをセンスのない記者たちが疑い、ダメにしていく、それを見ていると、一言と二言いいたくなってしまうのだ。
 
「疑うべきは他者ではなく自分の無能さを疑いなさい」
「価値のあるものを見定められない自分を疑え」
 
逆に言えば、他人を変えるよりも自分を変える方が楽なので、その楽な自分を変えれば世界が変わるのだ。