SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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伝えたい事は伝わらない事

他人のblogを見ていると、自分のblogがいかに情報の密度が薄い割に文章が無駄に多い事に気づく、時たま密度が高く比較的、質の高いものが書けると、アクセス解析で長期にわたって読まれ続ける事になる。
 
だが、それに比べると、最近の文章の何とつまらない事かと思う。自分で自分の文章を批評してしまうのだが、どこをどう変えれば、質の高いものになるのかという点では、よく分からないのだ。やはりよくわかっている事については、イメージできるが、そうでないこと、あるいは、興味のない事は書けない。
 
また、他人に伝えるべき事と考えてみても、特に伝えるべき事が見つからない。最近は、なぜか心が沈んでいて、なにも思い浮かばない。また、伝えても無駄の様な気がしてならない。多分、この沈み方は無力感なのだろう。
 
不況も終わりに近づき、意識は新しい社会へと向いているのだが、あまり、新しすぎると全然、分からない文章になってしまうので書くべきか書かざるべきかという事になってしまう。要するに反応が全くないのが怖いのだ。
 
もう10年近く前に提案した。携帯コンピューターを使った非同期授業や新しい循環型経済などを提案したとき、ハッキリ言ってバカにされた。お前は何様のつもりだという扱いだったが、今、アメリカの野放図な自由主義経済が破綻した今となっては、何もバカにされる事はなかったと思っているし、$500コンピューターがある今となっては、非同期授業も実現可能な段階になってきた。そういう意味ではChromeOS搭載のタブレットマシンは、教育に最適である。子供が持てる様に軽くてちょっと小さく作れて、子供が読む本(教科書)を電子化し、YouTubeの授業ビデオで授業を聴き、Webでテストをして、それを先生が採点する。この流れだと、個々の生徒の理解の進捗度に合わせて授業が出来るのだ。先生は生徒が分からない部分を教える事と、テストの採点だけをすればいい。
 
だけど、それを10年近く前に掲示板に提案したら反対意見が続出、賛成意見ゼロという惨憺たるものだった。循環型経済は、無利子融資電子銀行を活用した。資本の流動性にに特定の意志を持たせる事で社会に貢献する仕組みを考えたものだった。現在の市場経済は、市場という怪物が暴れ回る経済なのだが、その一部に、もっと理性のある経済をもたらそうと思って考えたものが循環型経済である。
 
税金を原資とした銀行で、例えば、環境破壊であれば、環境を破壊しているものに税金をかけて、それを原資として環境を修復する事業に無利子で融資する銀行を作り、お金に環境を守るという意志を持たせる循環モデルを作るのだ。つまり、市場という損得の合理性だけでなく、公共性や公益性に基づいた理性を資本のサイクルに加えるというのが私の案だった。現在の市場経済の問題は、将来の環境破壊のコストまで入れていないので、市場には将来の損得への対称性がない、長期的視点に立った合理性をもたらす為には、そういう意思を市場に加えないといけないと思ったのだ。損得の論理と環境保全のハイブリッド型が排出権取引だが、排出権はお金をとるだけで、融資をしてくれる訳ではない。あくまでも「環境を破壊したら損をするよ」というメッセージを送り、企業に改善を求めるが、それだけでは、個人を救う事にはならない。個人が必要なのは、無利子の融資で毎月の電気代や石油台と同じくらいの額で、太陽光発電やペアガラスなどを購入できる事が大事なのだ。
 
さて、そういう事を昔、友人に手紙を書いておくったら、鼻で笑われてしまった。バカにされて終わったが、今にして思えば、新しすぎて全然理解できなかったのだと思う。という訳で、言いたい事は沢山あれど、言うとバカにされたり、鼻で笑われたりするので、あまり喋らなくなってしまうのだった。今それをここで書けるのは、それほど笑われる事ではなくなったのではないかと思っているのだが、今でも、おそるおそる書いているというのが正直な心境だ。なぜならば、私は経済の事は、あまりよく知らないし、こういう金融システムがあったら便利という発想のレベルでしかない。致命的な問題が潜んでいるかもしれないので、おそるおそる書く訳だ。昔、鼻で笑われたりもしているしね。笑われているのだけど、その意見は笑われているだけで、何がどのように悪いのかは、手紙には書いてなかった。ただ見当違いであるとか、従来のものを変えようとしても無駄とか、そういう意見が書いてあったと思う。
 
私は将来起こるであろう問題を見越して考えたが、誰にもそれが伝わらなかったので、結局、無力感の末に「誰にも私の意見は聞こえない」と思う様になってしまった。何が悪いのか説明もされていないので、改善点も分からない、ただ、とにかく否定されるだけ、それのみなのだ。誰もいない体育館で自分一人の声がこだまする様な孤独感と無力感にさいなまれ、他者に対する猜疑心のみが積み上がっていく。
 
だから、伝えたい事があっても、伝わらないと臆病になってしまう。バカにされたり、笑われたりするのが嫌だから、でも、一番嫌なのが、ちゃんとした理由がない事。駄目な理由があれば、それで納得できるが、それがない事が一番辛い。それは、相手に何も引っかからなかったという事だからね。そういうときには、一番がっくりくる。相手に何も伝わらないという事は、その意見に意味があろうがなかろうが関係なく、無意味という事だからね。
 
無意味という絶望、それが嫌だから、黙ってしまう。でも、今喋っていられるのは、「まぁ大丈夫じゃないの」と開き直れる様になったから。伝わるか伝わらないかという事だと、伝える相手によりきりで、昔の友人は、それが理解できなかった。それだけの事として割り切ってしまえる様になった。それを差し引いてもムカつく事はムカつくのだが...
 
とにかく、伝えたくとも、時が来ないと伝わらない。それは人がイメージできるレベルを超えてしまうときに起こる問題なのだ。超えない様に表現力があればいいのだが、私にはそれがない。故に現状では、時を待つしかないのだ。そして、私は、その友人に
 
「未来がくれば分かる様になる」と言って絶交した。
 
要するに私は話の分からない奴はとことん嫌いなのである。というよりも絶望が怖いのかな。だから、その絶望の元になる存在を遠ざけたというのが正しい。