SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私の悲観主義のルーツ

私は、悲観主義的なところがある。そのルーツをたどっていくと、辛い子供時代があった。辛い事が沢山あると、そこから耐える為に予め悲観的な事を予想しておいて、本当に悲観的なことが起こったら「予想通り」という事で、精神的に均衡を保っていた。つまり、鎮痛薬みたいなものである。
 
しかし、この鎮痛薬(悲観主義)の副作用は、自尊心の破壊である。不安な状況から自分を精神的に守る為に予め不安になっておくのだから、物事に対する意欲がわかない。そんな事を言わず、前向きに考えて突き破れという意見もあるだろうが、子供時代の私には不可能だった。
 
不安になる癖というのは、自分の尊厳を無視する家族から自分を守る為だった。私は自分の精神を破綻させない為に不安という生け贄を差し出して耐えた。全てを予想の範疇におさめる事で痛みを和らげたのだ。安心できる家というよりも警戒するべき家だった。
 
だから、私は予想するのは癖になっているし、最悪の場合を予想する事が多い。しかし、それらは往々にしてチャンスを台無しする。なぜなら、物事には悪い側面もあるが良い側面もある。それを悪い方の片方しか見ないのだから、良い方を見落としてしまうのだ。そうやってチャンスを捨てていく、そういう意味で、この発想は副作用が大きく、人を不幸にする。子供の頃は、精神の破綻を防ぐ為にやっていたが、あの家から出た後は、その必要もない。不安にならず、問題に対処する事を考えるだけでいいのだ。
 
あの家の問題は、子供の意見を、きちんとした理由もなしに否定していた祖母に問題があった。祖母に権力がありすぎて、安易に自分の意志が通せる状況は、彼女を理不尽な存在にしてしまった。祖母の口癖は「理を通すな」だった。理に基づき、人を裁く私をいさめる為なのだろうが、理をもたないという事は、法律のない社会と同じで、弱者が結局苦しむ世界である。力の強弱で物事が決まる世界になってしまう。また、自分自身を法として機能させるというのもあまりにも傲慢である。なぜなら、祖母の主観は公平さを欠いていた。理由を言わない事で無制限の権利を主張できて、それを通せてしまう。この事に対し、私が受ける精神的な圧迫感は大きかった。相手に対するダメージの大きさを全く理解せず、ただ、自分が正しいと思う事を実行するという偽善者特有の発想は、この頃に私の否定対象となった。
 
私は、物事に証拠やデータを要求するのは、この祖母の影響が強い。無法に対するアレルギー、曖昧な基準の法律など、それらは、あの祖母を思い出させるものであり、私にとって否定の対象なのだ。否定の対象というよりも恐怖の対象と言っていい。
 
その無法(個人の偏った主観)から生まれる理不尽な現実から自分の精神を守る為に私は状況を悲観して現実と自分の心をシンクロさせる事で、心の破綻を防いだ。彼らが生み出す機能しない正義の為に私は膨大な精神的リソースを食いつぶしたと言っていい。権利がない状態というのは、そういう過酷さがある。
 
だから、まともな家族、互いに互いを尊重し、安易に人に忍耐を要求しないで、相手を思いやる家族というものを見たときの私のショックは大きかった。非常に素晴らしいと思ったものだ。
 
私は自分に対しては悲観的だが、他人に対しては楽観的だ。なぜなら、私が悲観する目的は自分の家族から自分を守る為であって、他人には、そういうものがないわけだから、別に悲観する理由は全くない。よって、私は他人に対しては楽観的なアドバイスをする事が出来る。問題点を指摘するが、しかし、総じて楽観的である。なぜなら、個人の主観という無法の世界で生きてきた私にとってみれば、他人のおかれた状況は法のある世界である。理を通せば、結果が出る世界なのだから。