SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私の評価の仕方

私が物事を評価するとき、いいものは、褒めまくり、駄目なものはクソと言い放つ。明暗がハッキリしている。いいものは、正しい方向性であり、どんどんそのまま突き進んでもらいたいから、褒めまくる。駄目なものは間違っている方向性だから、軌道修正する為に、クソ呼ばわりをする。
 
つまり、評価の仕方は、方向性の正しさを基準としている。だから、成果が上がらなくても正しい方向性ならば、一定の評価をする。結果が出なくても正しい思われる方向ならば、励まし勇気づける事を念頭に置く。これが単に結果だけを評価する人との違い。
 
私がこういう結論に達したのは、子供時代の部活動だった。いくら食べても太らない私の体質からすると、陸上部は選ぶべきではない選択肢だった。つまり、間違った方向の選択だった。毎日何キロメートルも走り、かなりの努力をしたが、身体能力は伸びなかった。あとで、運動に関する本を読んでみたら、それは努力の方向が正しくなかった亊が分かった。
 
私の様に体が栄養を吸収しにくい状態であると、運動のし過ぎは、筋肉が痩せてしまいかえって体力を低下させてしまう。つまり、私は体を鍛えようとして陸上部に入ったのだが、間違った方向の努力をした為に何の成果を上げる事なく終わった。自分の体質に適した運動をするべきだったのだ。その意味では基礎体力を酷使する陸上部は最悪の選択だった。
 
私の最悪の選択をした結果は、何の見返りもない努力で自尊心を傷つけるだけに終わった。このことから、私は正しい方向性にこだわる事が重要だと考える様になった。いかなる努力も報われるべきであるが、過った努力は何の成果を生まないばかりか、その失敗体験により自尊心すら失いかねない。
 
だから、間違った方向と見るや厳しく批判し、正しい方向だと見れば手放しで賞賛する。それは、子供時代の大失敗がルーツとなっている。私は正しい努力が大事で、いくら努力しても間違った方向だと、その努力はブラックホールのように闇に吸い込まれていく。闇に吸い込まれない為には何が正しいのか、常に注視する事が必要だと考える様になった。努力すれば報われるなんて、それは才能のある奴の戯言。才能のない奴は努力したって報われない事がある。ないならないなりに賢く立ち回らなければいけない。自分の能力と合致した正しい方向性を見いださなければ結果は出ない。世の中、努力すれば結果が出ると言えるほど甘くはない。特に才能のない人間にとってはそうなのだ。
 
だから、努力すれば結果が出るというメッセージが込められた作品を見ても私はあまり感動しない。そういう作品の主人公には努力が成果に変わるだけの才能がある事が前提となっている。だが、それすらない人間にとっては、白けるだけだ。努力が結果になる為にも才能が必要なのだ。特に運動なんかはね。反面、勉強なんかは努力がそれなりに結果になる。運動に比べて才能による差別が少ない分野だ。努力次第で改善できる余地が大きい。私の様な人間は自分に不得意な運動部になど入らず、得意な分野にいけば良かった。そういう意味で私は間違った選択は何のメリットもないと考えるから、正しい方向性を常に意識する。それが私の評価の基準なのだ。
 
天才だった義父を見ていて、「勉強なんてやれば出来る」と言われたけれども、天才に言われても全然説得力がなかった。子供の頃の私に言わせると「だって、あんた天才だもの」才能に恵まれた人間は、それがない人間に対して無神経である。(映画アマデウスに出て来るサリエリの気持ちはよく分かる。私もあの立場だった)
 
どうも才能に恵まれた人間に囲まれて自尊心を傷つけられながら子供時代を過ごしてきたので、ひがみっぽくなっている感は否めないが、正しい努力の必要性は重要だと言える。間違った方向の努力をしても何の見返りはない事、それはハッキリ言える。だから、私は良くないものを酷評するのだ。(間違った方向性のものを酷評するのだ)