SKY NOTE

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思考と表現力

思考を発電とするならば、表現は送電網に相当する。

インテリジェンスが社会を元気にする電力だとするならば、それを表現する事は送電網に相当する。

テレビはインテリジェンスが足りないが表現力はある。

送電効率を上げるためには抵抗を減らさないといけない。
・感情(反発力を低くする)
・娯楽(大幅に抵抗を下げる)

娯楽と感情、これに配慮することが大切。つまり、楽しく、そして、礼儀正しく。要するに紳士であれということだ。

礼儀正しく、そしてユーモアのある表現が出来ること。それが大事だ。反発力を低くするためには相手の意見が自分と違っていても、それを尊重する姿勢が必要となる。例えば、子供の未熟な意見に私は反論しない。なぜなら、子供が理解するのにはステップが必要だから。そのステップを越えない限りにおいて、反論しても無意味なのだ。それがどんなに間違っていても、ステップを越えない限りにおいて、無理なことを言うことになる。

無理強いはよくない、無理なことよりも、子供がステップを踏むことを大事にする。これと同じことが大人にも当てはまる。大人だって知っていることと知らないことがある。お互い様なのだ。つまり、お互いに子供みたいなものなのだ。だから、その互いの立場を尊重し、意見を言うことが大切だ。だから、間違っていても、それを尊重するというのはそういう部分だ。間違いを尊重するのは、間違いがあって当たり前で否定することよりもステップを踏むことを考えるべきだから。

例えば、子供が自転車に乗る。当然、最初は転ぶ、転んだことを否定するよりも、どうすれば上手くいくかアドバイスする方が大事なのと同じだ。減点主義はダメなのである。

抵抗を最小限に抑えることが出来れば広まる。その上で内容が優れていると、大電力が、広く送電網に流れる様なもので、その影響力が大きくなる。センセーショナルな意見は高電圧な意見と言うべきだろうか?

知性が社会を元気にする電気の様なものならば、教育がなされるのは、この知性を広める為である。無知という抵抗を低くし、知性が広まりやすくする為に教育はされるのだ。

皆が聡明であれば表現力が少なくても、ある程度は伝わる。だが、多くの場合、そのようには巧くいかない。そこで、表現力が必要。個々の不備を補うものが必要なのだ。問題の答が世の中には沢山あっても、それが正しく広まらなかったり、お金が足りないなどの理由で実現されない。だが、一度それが広まれば、お金が集まるし、正しい方向性ならば実効性も高くなる。

そういう意味で思考が目ならば、表現力は力なのだ。正しいだけではダメなのである。それが力を伴っていたり、形になってこそ、社会は認めるのだ。そういう意味で知性に力を持たせるのは、表現力なのである。この両輪がセットになってこそ、形になる。そして、その形を社会が認める。概念から形(実体のある存在)に変わるのである。

そういう意味で表現力は知性を形にする「力」と言える。