SKY NOTE

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コンセンサス社会の破綻:個人の自由という名の偽善

今の日本はコンセンサスが作りにくい。1990年代に自由の名の元に基本的なコンセンサス。「命の大切さ」など重要なコンセンサスを放棄した。何でも個人の自由と言って基本的な自由を担保する最低限の価値観まで捨て去ってしまった。

私は古い家に育ったので「命の大切さ」は耳にタコができるほど聞いた。最も印象が残ったのは、義理の父の言葉だ。確か日本が自衛隊を派遣せずに金を出した時の感想だったと思う。

義理の父:「金で命が買えるのならば、安いもの。普通は買えない」
私   :「え?! お金で買える命もあるんじゃないの。病気を治すとか...」
義理の父:「じゃぁ死んだ人を一億円払うから生き返らせてくれと言えるか?」
私   :「なるほど」
義理の父:「金は後でどうにでもなるが、命は別だ」
    :「取り返しがつかないものだからな」

極めて現実的かつ合理的な答え、つまり、そういう合理性を情緒的な偽善として捨て去ったのが1990年だった。私はこれを「偽りの個人の自由」と読んでいる。自由とは名ばかり、単なる「ワガママ(それを自由と勘違いしている)」自由と言いながら他者の自由(命)を安易に否定する愚かな発想。

そんなどうしようもない発想が、世の中に伝染病の様に広まり、命や正義に対するコンセンサスが形成できなくなり、経済合理性の前に正義や命が敗北し続ける事になった。その結果、沢山の人間が死んだ。特に子供達が亡くなっていく。本来守るべき優先順位が崩壊した結果だった。最低限の安全システムがコストの為に削られ、人が死ぬ。

福知山線の事故は便利さの追求を徹底的に押し進めた結果であるが、本来はそれと並行して、または優先して安全性を担保しなければいけなかった。しかし、まるでレースのタイムを削るかの様にギリギリのダイヤで運行されていたというから安全性が軽視されていたと言ってよいだろう。なぜなら安全性を重視するならば、どこかで余裕を持っておく事が絶対必要になってくるからだ。そして、それに優先度があれば、ああいう事は未然に防げた筈。しかし、経済が命に勝ってしまった。だから、ああいう悲惨な事故が起こってしまったのだと思う。そして、皆がそういう発想なので、それがおかしい事だと思わない。

ギリギリでも「しょうがないんじゃないの今は競争だし」と平気で言ってしまう信じられない馬鹿を増やしてしまった1990年代の失敗は大きい。命より優先する競争って何だよ。命の為に経済があるんじゃないのか?本末転倒なのだ。

日本人は教条主義に陥りやすい。ある事がコンセンサスになってしまうと、それに極端に突っ走ってしまう。その結果、過ぎたるは及ばざるが如しで弊害の方がメリットを上回ってしまう。さっき書いたように競争と言えば何でも正当化できるという「教条」に支配され、基本的な価値観(人命)が破綻している。無宗教な人間が多いので哲学こそが、基本的な思想であるのに、それを1990年以降捨ててしまった。常識(現実的な常識)という哲学がなくなったことで、日本は競争力が弱くなった。価値観がドライブしていた推進力を失ってしまったのだ。コンセンサスを形成できない今の日本はチェーンが外れた自転車の様に空回りをしている。