SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

船場吉兆破産と温暖化

「目先の小銭を稼ぐ為にブランドという大銭を失った」と感じる。吉兆の様にブランドを売る店は、食べ残しの使い回しをするなど、絶対やってはいけない事だった。しかし、目先の利益に捕われて会社自身が自殺してしまった。ブランドという大きなものと食べ残しの使い回しで得られる小銭を天秤にかければブランドの方が重いのだが、どうも、それが見えなくなっていたようだ。慢心は人を盲目にするというが、恐らく、このような当たり前の事が見えなくなるくらい慢心があったのだろう。

「見えない分からないと思って、ついやってしまう」そこには、お客さんに対する誠意というものを感じない。正の方向のプライドではなくて、負の方向のプライドがあった様に思う。お客様が吉兆に何を求めているのかという事が分かっていれば、この様な事はできない筈だ。だが、それをしてしまう。そこに驕りがあったと思う。

人は自分の手にしている物が当たり前だと錯覚してしまう事がある。船場吉兆の経営者は、多分、それが当たり前だと思っていたのだろう。私は温暖化の問題もまた同様に感じるのだ。私達もあの船場吉兆の様になる可能性があるのではないかと。

つまり、食べ物もエネルギーも外国から輸入して私達は便利で豊かな暮らしをしている。でも、それを当たり前だと思って、食べ物を祖末したり電気を沢山使う大型テレビ(40インチ以上)を買ったりしていないだろうか?本当にそれが当たり前だと思っていいのだろうか?と思う。

最近、NEONLINE(技術情報サイト)を見たりすると、中国や台湾、韓国の技術進歩が目覚ましい。それに比べると日本の技術開発はスケールが小さく見劣りがする事が多くなった。テレビのニュースを見ていると、技術は世界一と豪語しているのがとても空虚に聞こえる。実際はそうではないと思う様なニュースを沢山見ているからだ。そして、100円ショップに行けば、中国製のよくできた100円製品。そういうものを手にしながら、私はこう思うのだ。

「いつまでも、あると思うな、親と外貨」

ある日突然、自分達が取り残された事を知って、船場吉兆の、あの叔母はんの様になきを見る事になりかねない。そう思うと、40インチのあのでかいだけのテレビは、日本の墓標を見る様に思えてならない。何の工夫もアイディアもない、ただ「でかいだけ」昔のアメ車のようだ。地球環境の事考えず、小さな論理でモノを買う。でも、そういう小さな発想こそ、大きなものを無視して、吉兆の叔母はんの様に泣きを見る様な事の元凶ではないかとふと思うのだ。

つまり、客観的に見れば、食べ残し程度で得られる小銭よりも、ブランドという利益の源泉の方が大きいものだと分かっている筈なのに、なぜ、そういう事をしてしまうのかというと、「小さな論理」で行動していたからではないかと思うのだ。つまり、自分の手にしている物(大きなもの)を当たり前だと錯覚して、本当に大切なものが、何を礎にしてなりたっているか?それが、どんな事をしても失う事のない権利と勘違いしていたのではないかと。そう感じるのだ。

あの叔母はんの様に大きなものと小さなものの区別がつかなくなったら、私達もあの叔母はんの事を笑えないと思う。小さなものに目を奪われて、当たり前の様に感じるけど、実は大切ものを私達は失いかけているのではないかと思う。環境しかり、経済しかりである。

最近のアメリカの女性は、フェラーリよりもプリウスに乗る人の方がいいという話だ。ただ自分を誇示するだけの、でかい車を乗り回すよりも、地球全体の為という大きな心を持って小さな車に乗る方が高い評価を得られる社会になってきたという事なのだろう。

女性は、相手の心を見て評価しているのだと思う。自己満足という小さなものよりも、皆の幸せという大きな心を持っている人間の方がいいという事なのだろう。

私はそういう女性の意見に大いに賛同する。本来そうあるべきなのだ。小さな事と大きなものの区別がついている分別のある人間こそ、21世紀の地球にふさわしい。