SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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権威という馬鹿げたルール

田舎にいる時は何もかもが面倒だった。僅かな事ですらも家の中がひっくり返った。思えば度量の狭い家だった。小さな事にこだわり、本当に大事な事がよく見えていない家だった。

権威に従順であり、合理を無視し、馬鹿げたルールを無数に作って、それに無制限に従う。非常にバカバカしい家だった。歳を取って、大人になってから、自分の生まれ育った家を述懐すると、そうなるのである。

あれは何なのだろうと、ふと思う。彼らは何の為にくだらない過去に従うのか?未だによく分からないのだ。私が彼らの事が分からないのは、私が合理で物事を判断するからなのだと思う。無駄を省く姿勢からは、無駄をありがたがる人間の気持ちなど微塵も理解できない。正反対の事を正しいと思っているのだから永遠に平行線を辿る。

思えば、私の合理主義は、彼らの無駄から生まれた。「無駄」に無制限に従順である事が、いかに無意味であるかを、私の昔の家は私に骨の髄まで叩き込んで反面教師として私を教育していたと思う。

彼らはいつも「何か」に怯えていた。それが私にも何かは分からないが、とにかく「何か」を極端に恐れ、それ故に、それを避ける為の「無駄」を崇拝している様に思えた。無駄はいつも衝突を生産した。私から見れば無駄、彼らにとっては常識、でも、ルーツを辿ると単なる形式であり、心のない礼でしかない。空虚な礼と言ったところだろうか?

礼というものは相手の事を思いやる心から自然に生まれるもの、最初から形があって、その通りにしないといけない事なのではない。形は心より始まらないと空虚だ。それが見えている私と、見えていない彼らとでは、本質の理解度が違っていた。

馬鹿の一つ覚えみたいに相手の状況もきちんと把握せずに形式どおりに物事をやろうとするオウム人間にはいい加減、吐き気がするが、実際には、その方が人間、頭を使わない分、楽なのである。その楽なモノに権威がくっつくと、厄介なのである。

つまり、「頭を使わない楽な事が偉い」という事になる訳だ。アホにとっては魅力的な選択肢である。頭を使わない事が偉いのだから。形式が世の中にはびこるのもそういう楽な部分が好まれているからなのだろう。

要するに権威は馬鹿を量産する。あれは多分、病気である。精神の病だ。私の感覚から見ると、そうなのである。