SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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安易な我慢は無駄の元

我慢してやり抜くという事は、物事を粘るという事でもあり、美徳でもある。しかし、安易に我慢をしたり人に要求したりするのは考えものだ。なぜならそれは、非効率を安易に容認している可能性があるからだ。

無駄な作業を我慢してやるのは、時間と労力の損失であり、こういう事は避けなければいけない。私の家では祖母がそういう人だった。何でも我慢する事ばかり人に強いていた。私はそういう考え方に批判的だった。なぜなら、多少の変更で楽になるというのに、それをせずに、単に我慢だけで乗り切ろうとするからだ。

無駄を容認し、一向に状況が改善しない点で非常に損失が大きいし、ストレスもたまり、ろくな事ではない。体にも悪い。ある意味精神的な暴力である。人の精神を駄目にし、体力を奪い、気力を奪い、時間と労力を奪う。極めて大きなボトルネックになる我慢を私は強く否定する。

意味のある我慢は必要な事があるので否定しない。だが、そうでない我慢は避けるべきだ。仏教の世界で我慢とは、傲慢と同じ種類の言葉である。同じ「慢」とう字が使われている事からも、驕りに近い意味がある。

我慢の資料----------
http://ja.wikipedia.org/wiki/我慢

我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。
四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしつ)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。
現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという意味あいで「我慢する」などと使われるが、これは、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。

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思えば、祖母は強情な人だった。まさに「我慢」の人であった。悪人ではなかったが、この我慢からくる驕りが、周りを苦しませていた。そういう意味で、私は非常に我慢という言葉にはアレルギーがある。個人的に非常にこの言葉は欺瞞に満ちていて嫌いなのだ。忍耐は否定しない。なぜなら、その時は、理解できなくとも一生懸命やる事で学べる事があるから、(頭より体験で覚える事には忍耐が必要な時がある)だが、始終、我慢は駄目、良くない。何でもかんでも我慢は度を超している。そういう我慢は仏教の教えに近い「我」が極めて強く出てしまい。その「我」が他人を支配しようとする時、非常に大きな損害が産まれる。だから、嫌いなのだ。人のあるがままを認める為には、我慢ではない方法を選ぶべきだ。鳥は鳥の様に飛び、魚な魚の様に泳ぐ、そのありのままを認める為には、我慢は必要ない。そういう我慢は、鳥に水の中を泳がせ、魚にひれで飛べという様なもの。そして、そういう無理を我慢しろの一言で片付けられてはたまらない。もし、そういう事を魚や鳥にさせたら、自分を見失って死んでしまうだろう。目的のない安易な我慢はそういう意味で駄目なのだ。