SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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村社会の正義

村社会という小さな世界において、皆が同じ考え方であることが重要であり、そこに違いが存在することは、お互いが近すぎる社会では軋轢の元とされて否定された。日本人がお互いが同じ考え方を望むのは小さな世界でお互いが衝突しないための知恵だったのだと考えられる。

僅かなリソースをお互いに分け合って生きるのには、皆が同じ価値観を共有していた方が有利なのだ。社会が豊かになって、そういう気遣いもあまりしなくてよい社会になったが、考え方は、あまり変わっていない。何のために同調(連携)するのかということは、もう忘れている。もはや彼らの思考習慣であり、癖とも言うべきものなのだろう。(奇麗事が暴走するのも、同調ゆえだ:奇麗事は誰もが同調せざる終えない正義ですからね。実際は悪だけど)

人間が手段と目的を取り違えるときは、なにが起こっているのかというと、ある目的のための手段が習慣化し、その目的を意識する事がなくなり、ぶっちゃけた話、その目的を忘れてしまったときである。手段が標準化され「当たり前のこと」になる。そして、その「当たり前のこと」をしない人間は否定される訳である。元々は目的があって、その手段に過ぎなかったものが、標準化されることによって権威になり、それを否定するものは、「権威に逆らうもの」として否定されるわけだ。これが現代の日本社会の村八分の構造だと思う。(村八分=手段の権威化と対立する常識)

私はよく理由を聞く、理由を聞くというのは、目的を聞き、それに合わせて手段を選ぶために必要なのだ。しかし、私の子供の頃は、こういう考え方をしていると、いつも争いになった。旧来の「権威」と、ことごとく衝突してしまったのである。だから、子供の頃は漫画のガリレオの伝記を読んで感動したものだ。「それでも地球は回っている」という言葉に感動し、素晴らしいと思った。それに比べて日本という国は何と遅れているのだろうと思ったものだ。子供の頃からそういう生意気なガキだったので、よくいじめられた。異端者というのはそういうアンチテーゼから生まれるのだと思う。ただ、私自身は異端者ではなく、あくまでも彼らに比べて、私が異端ということであって、理由を聞いて目的を定め手段を選ぶという私の行動はいたって普通でまともだと思う。

ただ、「まとも」な私が少数派だったので、異常にされてしまったのだ。時として多数の異常者の中に少数の常人が混ざるとき、多数が標準化されて、少数がその「標準」に対する「異常者」として扱われることがある。つまり、相対的な関係で異常者が生まれてしまうのである。

私のまともの定義は、行動の正当性に、権威ではなく、客観的事実によって公平に判断することである。極めてまともに思えるが、お前はおかしいと言われてしまう。子供の頃から、権威が産み出す理不尽と対立してきた自分にとって見れば、根拠が曖昧か、存在しないような、おかしな理屈を言う彼らの方が「おかしい」のであって、私は「まとも」だと思う。権威を無視するのがまともじゃないというのならば同意するが、その行動姿勢において、何ら問題と思える部分はない。むしろ本来の目的を忘れ、手段を権威化した状態で、過去の論理を踏襲し、現状に合わないことを皆で無理してやる事の方が異常だと思う。

私が望むのは、忘れてしまった本来の目的を思いだし、何事も無闇矢鱈に同調するのをやめ、手段と目的の関係を明確にして、皆がお互いに多少違っていたとしても、その目的と手段において正当ならばお互いに認めあえるような社会である。それは皆がバラバラになれという事ではなくて、目的を持って連携(同調)せよという事である。そして、それがなかったら無理して同調することはないじゃないかという話である。何でもかんでも同調という枠にいれてしまったら、自由じゃなくなってしまうからだ。自由でありながら、集団の力を活用する為には、目的と手段を明確にする事で、選択的連携をすることで、必要な時に力を合わせ、そうでない時には自由という形に出来ればいい。そうすれば、もっと楽な社会になると思うのだ。