SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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人が悪魔に変わるとき

僅かなミス、失敗...
権利がないので、ゼロが無限大になる。
些細なことで争いになる...酷く面倒
塵のような些細な事が鉛の塊となって私に降りかかる。
心と体がすり減り、ぐったりする。
 
子供の頃の私はこれが恐かった。強権が産み出す過剰な正当性は、権利のないものに対して酷く厳しい。抗議は認められないので、こちらは、やられっぱなしになるし、相手はやりっ放しになる。

強権は人を悪魔に変える。痛みや苦しみがなかったら、体が壊れても平気な顔をしていられるだろう。強権は他人に対してそれが出来てしまう。人の心と体を壊しても平気な顔が出来るのが強権の恐ろしさである。

最近ではアブグレイブ収容所の暴力訊問事件がある。
人が悪魔になる時??アブグレイブ虐待とスタンフォード監獄実験(1)
http://wiredvision.jp/news/200803/2008031323.html

陰惨な写真から分かるとおり、増長ここに極まれりと言った感じだ。人を悪魔にする状況というのがある。一方的に相手を悪と決め付けられる状況が生まれると、人は自分が何をしてもいいと勘違いしてしまう。特にそれが集団の中で広まったとき、一人だけ「これはいけないじゃないか!」と言うことは出来ず、同調する中で次第に危険な方向へエスカレートしていく。人には本来、サドッ気がある。普段は社会性という形で抑えこまれているが、社会がそれを「OKよ、こいつ悪だから、なにしてもいいよ」と言うと、タガが外れて暴走し始める。ヒトラー政権のユダヤ人虐殺などは、その最たるものだ。

日本人は同調しやすいから特にヤバイ。私は子供の頃に、いじめで体験済みだから、それがよく分かる。子供社会が「こいつは、いじめてもいい存在なの、だから、いじめてもいいよ」と設定したとき、心の中にあるブレーキというか、フックが外れて暴走し始める。人間の中には、人をいじめたいという欲望がある。その欲望は普段は抑えこまれているが、時折、それを解放してもいいという許可が下りると人は悪魔になってしまう。誰にでもあると思う。そういう感覚は。それを仮想の世界で吐き出したりして処理していれば、何も問題はない。だが、他人に対してそういうことをしてはいけない。収容所の陰惨な写真は、そのことを教えてくれる。
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己の正しさに酔うとき、人は悪魔に変わる。私は正義だから何をしてもいいのだと勘違いしたとき、人は悪魔に変わるのだ。